十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

Q:愛情ゆえの叱責でしょう? ~教会でのハラスメントを考える~

2022/09/12
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

Q:教会のパワハラとかモラハラとか、騒ぎすぎじゃないですか?
愛情あまって、ついつい声が大きくなったくらいのことだと思います。

1.自分の身を振り返って

ある小さな家庭集会でのことです。

礼拝を始めようとする矢先に、ホストの方が、私事で礼拝を中座されると言い出されました。驚いた私は、その場で問い詰める形になってしまいました。

後日、その場に居合わせた一人の方に言われたのは、パワーハラスメントの公開叱責にあたるということでした。

居合わせていた他の方も、一様に不快感を覚えていたことが分かりました。

忠告すべきことがあれば、後で当人とだけでなすべきであり、配慮の欠けた行為だったと思い知らされました。

裁判で明らかにされているパワハラの定義は、
①上司⇒部下、指導者⇒信徒といった、優位な関係に基づいて行われるもので、
②適正な指導の範囲を超えたもの、
③心身に苦痛を与え、環境に悪影響をもたらすもの、です。

私のケースの場合で考えると、
①牧師⇒信徒という関係において行われ、
②人々の面前というふさわしくない場であり、
③居合わせた人々も不快感を抱いた、という意味で、確かに、パワハラと言われて仕方がないことでした。

 

2.パワハラのケースを教会の場面で考える

指導者が、神の権威によって、神の言葉を語るわけですから、教会は、パワハラが起こりやすい要件を抱えた場所だという自覚がまず、指導者にも信徒にも必要だと思います。

厚生労働省が掲げるパワハラの定義を基に、教会では、どんなパワハラが起こりうるのか、例を挙げて考えてみます。

①身体的攻撃

指導者が信徒に殴打や足蹴りをする。物を投げつける。

…ある指導者は、子どもを叱責する際、その子の面前で、その指導者自身の足を、副リーダーにムチで叩かせていたそうです。

一見すると、指導者が身を張っているようでいて、実際のところは、相手の子に恐怖と罪悪感を抱かせる心身への攻撃と言えます。

叩く役目を担う副リーダーもまた、罪悪感を抱かせられます。

相手に罪悪感を抱かせてコントロールするというのは、カルト的指導者の典型的な特徴の一つでもあります。

②精神的攻撃

指導者が信徒に、人格を否定するような発言をする。

…人格否定をしやすい人は、優越感を得るため他者を見下げ、自分がすべて正しいと確信しており、感情的になりやすい人です。その人の助言自体が攻撃的だったりします。

③人間関係の切り離し

奉仕のグループから外す。無視する。別室に隔離する。
…町で会っても声もかけず、無視するということを集団で行う。仲間でない、とリーダーによって判定された途端に、メンバー全体が手のひらを返したような態度になる。カルトに共通の特質の一つです。

④過大な要求

業務上明らかに不要なことや遂行不可能なことの強制、仕事の妨害。

…指導者が信徒に長期間、肉体的苦痛を伴う過酷な環境下で奉仕させる。奉仕が強制となり、ぶっ倒れるまでやめられないとなると、本当に恐ろしいことです。心身を病んでしまう人がいます。

⑤過小な要求

業務上の合理性なく、能力や経験とかけ離れた程度の低い仕事を命じることや仕事を与えないこと。

…指導者が、献身者に対し、いつまでも経っても簡単な奉仕しかやらせない。

ここには育成の視点がなく、ただ小間使いにしているだけだと言えます。

⑥個(プライバシー)の侵害

私的なことに過度に立ち入ること。

…指導者が、私生活や夫婦、家族関係にまで口を挟み、事細かく指導する。

指導者が、信徒の部屋に上がり込んで、不要品の廃棄を命じる、子どもの着る服まで指導者が決めて押しつけるという例について聞きました。

指導者の意向に沿わない信徒に接触しないよう働きかける、集会への出席を強要する、それも個の侵害です。

 

パワハラかどうかの基準は、“力関係の中で行われ、通常の指導の範囲を越えており、周囲の人々にも不快感や悪影響を与えている”ということです。

力関係としては、「指導者⇒信徒」以外に、「信徒リーダー⇒信徒」「古参の信徒⇒新参の信徒」「社会的地位のある信徒⇒一般の信徒」など、いろいろな形が考えられます。

会衆派の教会の場合には、「役員⇒牧師」というハラスメントも見聞きします。この場合は、雇う側(役員)⇒雇われる側(牧師)という力関係の中で、ハラスメントが行われるわけです。

 

3.聖書から考える指導者の態度

聖書が指導者に求める資質とは、強力なリーダーシップや支配力ではありません。

イスラエルの偉大な指導者であったモーセは、最も謙遜な人でした。

神とイスラエルの民の仲介者だったモーセには、民から、ありとあらゆる不平不満が持ち込まれ、時には、リーダーの資質を疑われ、罵詈雑言を浴びせられています。

それでもモーセは、主の御前にひれ伏し、民の罪へのゆるしをとりなし祈り、ただ主の助けを求めたのでした。

モーセは、生涯でただ一度、不平をあげる民に激高して、岩を打ちたたいたことがありましたが、このただ一度のことを、神は厳しく咎められています。

神の民の指導者の責任の重さについて、考えさせられます。

 

主イエスは、腐敗した神殿で激しい怒りを露わにされました。

一方で、「不信仰のサマリアを焼き滅ぼしましょう」と言った弟子を戒められています。

正しく怒ることができるのは、愛と義の神ご自身だけだと教えられます。

罪なき主イエスの叱責は正当なものですが、それでも、主イエスが弟子たちを叱責されたのは、わずかな機会だけでした。

 

弟子たちが、主イエスの教えに従い、人々を愛し、仕えあっていったことは、使徒行伝や手紙からよく分かります。

使徒パウロが、問題だらけの教会に、いかに忍耐強く接し、聖書を説き明かし、過ちを指摘していったかは、コリント教会への二つの手紙が教えてくれます。あの有名な「愛の賛歌」も、この手紙に記されたものです。

最後の晩餐で、主イエスは、奴隷のように弟子たちの足を洗い、仕えあうことを弟子たちに求められました。

パワハラを肯定するような教えは、聖書には全くないと断言できます。

【愛の賛歌】Ⅰコリント13:4~7
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

4.聖書が指導者に求めること

①聖書を正しく説き明かすこと

指導者の第一の責任は、聖書を正しく説き明かすこと。ここが崩れれば、すべて崩れます。

聖書の学びによって、信徒一人一人が、真偽を見極める目を養っていくよう、育んでいく責任が指導者にはあります。

あるカルト化した教会で牧師が最初に行ったのは、聖書研究をやめさせることだったそうです。

聖書の学びがおろそかにされている教会は、要注意です。

②人々への謙遜な態度

主イエスが、弟子たちの足を洗い、互いに仕えあうよう命じられたように。

弟子たちが第一に教えられ、実践しあっていったのは、へりくだることです。

③愛すること。仕えること。

権威に従うこと、指導者を尊敬することを聖書は求めます。

一方で、指導者には、愛すること、仕えることが求められます。

指導者に従いなさい、というのは、神様から一人一人の信徒への命令であって、指導者が、信徒に、「私に従え」と命じることはできないということです。

主を信頼し、人々を愛していく。それだけなのだと教えられます。

 

あるケースから考える それは、叱責? それとも、パワハラ?

とある教会指導者が、付属施設で作業中、二階まで響き渡る声で、副リーダーAをどなりつけたそうです。

「そんなものはいらない!! でていけ!!」

二階にいた信徒Bが、怒鳴り声に驚いて階下に降りると、副リーダーAが外へ追い出されるところでした。

なお怒鳴り続ける教会指導者に、お願いだからやめて欲しいと信徒Bが言うと、教会指導者は、「C先生(Aの母教会の牧師)が、やっていたように、私もBには厳しくするのだ」と告げたそうです。

教会指導者が、信徒Bに向かって言い放ったのは、「Aは帰ってくる(放っておけばいい)」ということでした。

しばらくして、副リーダーAは、顔面蒼白で帰ってきて、教会指導者に平謝りしたそうです。

 

叱責するのに、大声も人格否定の言葉も不要です。出て行かせる必然性もありません。

ここに見られるのは、典型的な、虐待の加害者と被害者の関係です。

教会の中でこんなことが常態化しているならば、恐ろしいことです。

この教会指導者は、詐欺同然の金銭トラブル、児童虐待、動物虐待など、他にも様々な問題を引き起こしていると聞きました。

カルト化した教会には、例外なく、あらゆるハラスメントが常態化しています。

もし、上記のようなハラスメントを見聞きし、訴えたにも関わらず、それを教会内部で適切に取り扱うことができないなら、その教会は、カルト化している可能性が大だと言えるでしょう。

 

上記の件には続きがあります。信徒Bが、他教会の牧師Cに話をしたところ、まともに取り合ってもらえなかったそうです。

「○○先生も、よく信徒を叱りつけていた」とか、「悪いことをしたら叱らなければならない」とか、「階段の上で子どもが喧嘩をしていたら自分だって大声を出すこともある」などと言われたそうです。

よくあることだと一般化し、矮小化する。ことが明らかになったときに、それをもみ消す側の典型的な論理です。

上記のような状況が普通のことだというのなら、はたして、牧師Cの教会は、どうなっているのかと、そこも気になります。

 

パワーハラスメントの定義は、「通常の業務の範囲を超えて」です。

教会の場合には、「通常の指導の範囲を超えているか」が問題となるわけですが、明らかに逸脱しているものを、適正と言ってしまうのなら、加害者側に加担してしまうことになります。

ハラスメントとはなにか。教職者も信徒も、しっかりと学び、正しく判断する必要性を痛感させられています。

社会的な定義について学ぶことはもちろん、何より、聖書から、主イエスや聖徒たちの姿から、あるべきリーダーシップについて学び、身につけていかなければならないと思います。

あるべき信仰共同体のありようについて、聖書は明確に、私たちに教えてくれているからです。

この記事を書いている人 - WRITER -
2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

Comment

  1. 匿名 より:

    私も某教会に通教してましたが、昨年の8月の下旬から行かなくなりました。犬の体調考慮して、今年の9月に仕事上で隣町の古着及び雑貨の回収することになってたため、某教会に顔だしたらなんか凄いことになってました。街中では噂になっています。今年の1月には中学及び高校生と親同伴なしの韓国旅行行ったというお話も聞きました。もう私は社会人という事なのでちょっと厳しいお言葉になってしまいますが、教会で養っていけると思ったら大間違いですよ!就労して金銭という事をわかって欲しいです。そして貯金して皆で海外旅行行きましょうとそいうは流れにはなると私は思います。敵金でそれは違いと私は思います。これは本当に思ったことで
    申し上げございません。

    • sikaoichurch より:

      お返事遅くなってすみません。コメントありがとうございます。

      カルト化した教会の問題について、どう対処していくか。クリスチャンとしての責任も感じています。

      海外旅行の渡航費まで出す一方、精神的にも生活上でも、依存させて、支配していくという有りようは、異常なことだと思います。

      教会に、助けを求めて来られる方々もいらっしゃいますが、経済的にも精神的にも、ご本人の自立を前提として、サポートに徹していくのが、教会に求められる支援のあり方だと考えています。

  2. 匿名 より:

    助ける助けない前提で就業支援とかで支援してくださる、就業支援と専門してくださる企業様、相談専門してくださる、相談専門支援員などが沢山役場などがあります。そしてできるだけご自身のお力でお仕事できるようにした方が、将来性があります。私も知的障害及び発達障害があるので、障害専門の就労支援事業所もあるのでしっかりお勉強された方が宜しいかと思います。

    • sikaoichurch より:

      そうですね。仕事や生活をどうするか、ということは、具体的なサポートも受けながら、自分で探して、考え、身につけていかなければならないと思います。

      自分でやるべきことを、他者に依存してしまうと、おかしなことになります。
      依存させて支配するのが、カルトのやり方ですから、生活の上でも、自立するのは、とても大切なことだと、わたしも考えています。

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