ハロウィンと祭りについて考えた
1. ハロウィンの悲劇
韓国の梨泰院で起きた凄惨な圧死事故。衝撃でした。
圧死が起こる状況は、いろいろあるわけですが、近年で最悪のものは、2015年にメッカ近郊で起きたメナー巡礼事故で、2000人以上が亡くなっています。
メッカでは、1990年にも1426人が亡くなる圧死事故が起こっています。
サッカー場でも、度々圧死事故が起こっています。インドネシアの事例は記憶に新しいところです。
共通項を見いだすなら、祭り、あるいは、祭り的な、熱狂の中での出来事だということです。
今回の梨泰院での事故は、ハロウィンのさなかでの出来事でした。
クリスチャンとしては、ハロウィンという背景が一番気になります。
ハロウィンという祭りそのものに、今回のような事件を引き起こす要因があるのではないかと考え、危惧しているからです。
【過去の記事→】 Q:キリスト教会では、ハロウィン、やらないの?
2. 悲劇のルーツ
ハロウィンの起源は諸説ありますが、ヨーロッパ土着の死者の祭りが、形を変えてアメリカに定着し、日本、韓国まで広がってきたようです。
アメリカの習俗としてのハロウィンは、楽しい子どもの仮装イベントです。
それだけなら目くじら立てるほどのものではないかもしれません。
しかし、物事は、最初の本質以上のものにはなりませんし、原点に回帰することもあります。
争いから生まれたある宗教の暴力性が、長年の内に薄められていたとしても、原点回帰した熱心な信仰者が、テロに走ったりするのです。
ハロウィンに、日本でも近年、様々な問題が起こっていますが、ハロウィンという祭りの持つ本質が顔をのぞかせているではないでしょうか。
アメリカでも100年ほど前には、エスカレートしたハロウィンのいたずらで、死者まで出る事態が都市部で起こっていたそうです。
線路に石を置く、車に火を付ける…。子どもたちのいたずらが、暴動のような状況にまで悪化していた。
手を焼いた大人たちが、お菓子をあげるからいたずらしないでねと、なだめたのが、「trick or treat(お菓子をくれないといたずらするぞ)」の起源と聞きました。
子どもたちが暴れ回るハロウィンを、仮装とお菓子を楽しむ平和的な祭りに変えていったわけです。
しかし、ハロウィンの本質は変わっていません。
仮装という匿名性、この日は、いたずらがゆるされるという非日常的性。どちらも危うさをはらんでいます。
はめを外していい日だと理解した若者や大人が、仮装という匿名性を身に帯びて、集団で町に繰り出せば、何事もないわけがありません。
日本では、ハロウィンを利用した切りつけ事件もありました。渋谷の暴動も梨泰院での事故も、起こるべくして起こってしまったよう感じます。
3. 祭りは熱狂をもたらす
ハロウィンとは別ですが、日本でも最近、ケンカ祭りと呼ばれる祭りで、死者が出る事態が相次いでいます。
梨泰院がそうだったように、コロナ禍明けの状況も重なったのでしょうが、祭りの熱狂の中でけが人や死人が出るのは、決して珍しいことではありません。
この日に限っては羽目を外していいという、非日常的な祭りは、憂さ晴らしの格好の機会にもなりますが、たがが外れれば大惨事になりかねません。
だからこそ厳重な警備もなされますし、伝統的な祭りには、一線を越えないための決まり事も定められています。
長年、地域で行われてきた祭りでも、惨事にいたることがあるのです。輸入されて間もない祭りなら、その危険性は言うまでもありません。
「お祭り男」の「お祭り騒ぎ」で、「あとの祭り」。
祭りの本質は、つまり、そういうことなのだと、よく現しています。
4. イスラエルと祭り
聖書には、祭りは、どのように描かれているでしょうか。
族長時代、ヤコブの息子の一人、ユダが堕落し、カナンの土着の祭りに繰り出して、倫理的に逸脱した結果を招いています。
後々のイスラエルが偶像礼拝に陥った理由の一つも、様々な欲望を満たしてくれる祭りの誘惑だったのでしょう。
神がイスラエルと結んだ契約が、律法です。
律法が認めた祭りは、唯一の神に対する祭りだけでした。
中でも三大祭と言われる、過越祭(すぎこしさい)、五旬祭(ごじゅんさい)、仮庵祭(かりいおさい)には、人々は神殿に集い、定められた献げ物をし、神との交わりの食事に預かることをゆるされました。
律法の祭りが、他の祭りと全く異なるのは、神が定めた、神に近づくための方法だということです。
人の欲望を満たすためのものではありません。
律法の規定通りに祭りが行われたのは、長いイスラエルの歴史のなかでも、わずかな期間に過ぎませんでしたが、その時には人々は、神を知る喜びに満たされました。
人の祭りの熱狂とは、本質的に全く異なる感動が人々を包んだのです。
5. イスラエル最大の祭りとメシア
律法の指し示すメシア、主イエスが都に入られたのは、最大の祭り、過越祭(すぎこしさい)の時でした。
人々の熱狂の内に迎えられたイエスは、祭りのさなかに、十字架にかけられることとなります。
しかし、十字架で死んだメシアは、葬られた後、三日目に復活されました。
十字架の前夜、過越の祭りの特別な食事の席で、主イエスは、驚きの真実を明かされます。
ご自身こそ、過越祭が示す、真実の贖(あがな)い、罪のゆるしをもたらずメシアだということでした。
主イエスの十字架の死と復活。この福音こそが、何百年も続けられてきた過越祭の核心だったのです。
50日後の五旬祭に、使徒たちに聖霊が降り、信者の群れである教会が誕生しました。
今の教会時代には、祝うべき祭りはもはやありません。
律法最大の祭り、過越祭は、メシアの贖いが成し遂げられたことで、その役割を終えたのです。
まとめ. クリスチャンには毎日が祝祭
律法の最大の祭りの目的が果たされた今の教会時代、クリスチャンにとっては、毎日が祝祭だと言えるでしょう。
使徒の働きに記録されているのは、会堂や家に集い、使徒たちの聖書の解き明かしに耳を傾ける人々の姿です。
賛美し祈る場面もありますが、集いの中心は常に、聖書の御言葉そのものです。
鹿追教会の礼拝でも、ひたすら聖書講解メッセージを続けてきて、よく分かるのは、御言葉を味わい知る、そのこと自体に、他の何ものにも代え難い、喜びと恵みがあるということです。
福音を信じて救われたクリスチャンにはもはや、祭りの熱狂は不要です。
大勢の人々をひとところに集め、熱狂を求めて昂揚させる。そんな必要は、まったくありません。
信者の内に住まわれる聖霊が、最も強く働かれるのは、御言葉を慕い求めて、心を傾けるその瞬間です。
一方で、時代は、ますます祭りを求めているのかもしれません。
推しのアイドルを追っかけるのも、支持する候補者の弁舌に心酔して応援するのも、一種の祭りと言えます。
熱狂の中で束の間、自分と世界の現実から目を逸らそうとする。
覚めない夢を追い求めて、しかし、命すら失ってしまうのなら、あまりに悲惨な悲劇です。
祭りの熱狂の中で都に迎え入れられた、主イエスが見据えていたのは、メシアを拒んだイスラエルが、やがて迎える悲劇でした。
五旬祭で弟子たちが人々に迫ったのは、メシアの再臨への備えとしての悔い改めでした。
主イエスは、再び来られ、世を裁き、世界を回復されます。
神の約束に立つクリスチャンは、人に期待せず、熱狂を求めません。
人の罪の現実を誰よりも理解し、混沌深まる世にあって、ただ主を信頼します。
なお突きつけられる自分の罪と対峙し、聖霊の助けに委ね、なすべき行動をもって主の促しに応えていきます。
信仰により溢れ出るもの。それが、喜びがもたらす平安です。
嵐のただ中でも、静かな海底のように。
どんな状況にも揺るがされることのない信仰をこそ、御言葉によって育まれていきましょう。