十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

聖書的とは、どういうこと? 聖句を引用すれば、聖書的? 大切なのは文脈です♪

 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

1.  聖書的という言葉

聖書的かどうか。特に福音派で、よく聞く言葉です。それは、聖書的な正しい解釈、理解に基づいているのか、という意味合いなのだと思います。

しかし、実際には、極めて感覚的に使われている場合が多いと感じます。聖句を用いて何か言えば、聖書的だと言ってしまうくらいの緩さを感じます。

2.  とある人々の言う聖書的

旧約聖書の最後、マラキ書4章5~6節。
「見よ。わたしは、【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

ここは、聖書の文脈に従えば、終末におけるイスラエルの信仰の回復を預言した箇所です。最後の裁きの警告のために現れるのが預言者エリヤです。

かつて、イエスをメシアと信じるか、拒むかで、肉親が引き裂かれたイスラエル。しかし、そのイスラエルが民族的悔い改めに至る時、分断した家族内にも和解がもたらされるのです。

しかし、ある人々は、この箇所は、人の内面の癒しを現す箇所だと主張し、癒やしのセミナーのタイトルにエリヤの名前まで冠しています。

活動の根拠となる聖句の引用が、この有様では、内容も推して知るべしです。

しかし、このセミナーにのめり込んでいる人は、「聖書的」ですばらしいと手放しで賞賛するのです。なぜでしょう?

3.  聖書の比喩的解釈の歴史

本来の文脈以上の意味をくみ取るのが比喩的解釈。メシアニック・ジュー(ユダヤ人クリスチャン)が、教会の主流から追い出されて以降に出て来たものです。

異邦人が中心となった教会で、ユダヤ的要素を徹底して排除した挙げ句、本来の文脈をも見失ってしまったのです。

字義通りに聖書を読むのではなく、読み手の思いや憶測から、聖書を私的に解釈していく。この比喩的解釈によって、語る人ごとに解釈が異なる混沌が生じました。

文脈を無視した解釈が、むしろ斬新だと感心されてしまうような風潮が、今日まで続いているように思います。預言の解釈となると、その傾向は、より顕著ですす。

4.  本当に聖書的であるということ

人の話を聞く時に、当たり前に求められるのは、話の文脈を押さえることです。

たとえば、「Aさんは、新そばを食べた」と聞いて、「Aさんは、悔い改めて新生し、末永く生きることを願ったのだ」なんて言い出したら、明らかにおかしいでしょう…。比喩的解釈とは、そういうものです。

私たちに、今改めて求められているのは、文脈にそって聖書を読む、という極めて当たり前の姿勢です。

歴史的、文化的、言語的背景から聖書を読むなら、何より本来のヘブル的(ユダヤ的)視点は欠かせません。

聖書から引用していれば「聖書的」と言うなら、カルト教団のあるものは、非常に聖書的だということになるでしょう。

本当に聖書的であるとは、聖書全体、書簡全体、その箇所の前後の文脈に従い、本来のヘブル的視点に立って、聖書を読み、解釈していくということに他なりません。

当たり前が当たり前であることが必要です。

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