かつての自分と向き合う リベラル派クリスチャンとの議論をめぐる考察 

   

前書き

我ながらしつこいヤツだと思いつつ、なおも書き連ねています。こだわりはじめたら、とことん突き詰めずにはいられない質で、それ一本でここまで歩んできました。

言葉狩りとヘイトスピーチはコインの両面に過ぎないのではないか。

何より、異なる立場と議論ができない、という思想の劣化が、この状況を生み出している根源ではないか。

…そんなことを考え続けています。

なぜ世界は変わらないのか。なぜ私も、教会も変わらないのか。
現実に目の前にある、行き詰まりから生まれた問いが、思索の始まりでした。

1. 議論を放り出したのでない?!

SNS上で、何度かリベラル派の牧師から抗議のコメントを受けましたが、なかなか議論らしい議論に発展しません。ぷつっと途切れてしまうのです。前回の同性愛をめぐる議論もそうでした。

彼ら彼女らにとっても重要なことだろうに、なぜ議論を放り出すのだろうと考えていたのですが、ふと気づかされたのは、放り出したのではなくて、あれ以上言うことがないからだということです。

前回の議論で言えば、“聖書の言葉よりも命が大事。聖書の言葉によって否定された者の苦しみは、あなたには分からない。” それを口にされた時点でA牧師の議論は完結していたのだということです。

言ってみれば、水戸黄門の印籠のようなものだと思います。それを突きつけた時点で終わっている。

印籠を突きつけたにも関わらず、なおも楯突くとすれば、それはお上をも恐れぬ非道な輩です。助さん、角さん、とっちめておやりなさい。という展開になるわけですね。

これ以上発言を続ければ、どうなるか分からないぞと、言外に含ませてコメントしたB牧師は、助さん、角さんとして、正義を実行し悪を成敗する立場ということでしょうか。

こういうコミュニケーションは、相手を黙らせるには、有効な方法なのだと思います。

相手が、同じ組織、あるいは政治的に近しいグループに属する場合には、特に効き目は大きいでしょう。

はっきり言えるのは、これは相手を黙らせるためのやりとりであって、対話など、そもそも生まれようがないのだということです。

リベラル派クリスチャンの特に社会派に属する人々が常用する、暴力的なコミュニケーションの典型だと思います。

異なる立場の人との対話ができなくて、一体、どうやって社会を変えられると思っておられるのでしょうか?

現代のリベラル派の多くの人々が抱える最大の欺瞞です。

2. 本当に空っぽだった。

議論を放り出したのはなく、あれ以上言うことがなかったのだ。そう気づかされて愕然としました。つまり、私は、もう少し、何かあるだろうと思っていたわけです。

昔の恋人に十数年ぶりに出会ったら、余りにも中身がないのにがっかりしたという感じでしょうか。

相手がそうだというのは何より、かつての自分自身が空っぽだったということですが…。

自分自身を思い返せば、確かに空虚だったと思います。

それは差別だ、あなたはおかしい…。でも、それ以上に何か言葉をもっていたかと言うと、何もなかったと痛感するのです。

空虚さの根っこにあるのは、不信仰です。

イエス・キリストが、わたしの罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、復活されたということを、信じていなかった。

神を、聖書の言葉を、信じていないものが、どうやって、神の助けを得ることができるでしょうか。

今にも溺れそうになりながら、投げ込まれた浮き輪をつかむことを拒んで、どうして助けてくれないのか、と叫んでいる。それが、かつての私だったと思います。

3.ポストモダン、感情絶対の時代の申し子として

A牧師、B牧師とのやりとりを振り返りつつ、痛感させられたのは、「あぁ、これがポストモダンの時代のリベラリストということか」ということでした。

ポストモダン。個人の感情や感覚が絶対化される時代。

リベラルが従来、重要視していた筈の人間の理性も、論理的に議論するということすらも、どこかへ行ってしまった時代。個人の感情が絶対化され、受け入れがたい相手は拒絶するのが当然の社会。私たちは、そのただ中にいるのだということです。

自分の感情が無条件に絶対化されてしまうなら、自分の主張を理解してもらおうという動機付けは薄くなるでしょうし、相手を説得しようという働きかけも弱まります。

A牧師もB牧師も、私とはほぼ同世代です。感情が絶対化されるポストモダン時代の申し子なのだと痛感させられました。

一時期、精神世界(ニューエイジ、スピリチュアル)というものにはまっていた私ですが、それは、自分の感情、感覚を絶対化した先の、当然の帰結だったと思います。

自分の感性が絶対化された挙げ句、人が神になる、というニューエイジの思想は、まさに、感覚優先、感情絶対のこの時代とぴったりシンクロしています。

ただ、感情をぶつけ、レッテルを貼り、拒絶するだけ。

その精神構造は、ヘイトスピーチを行う人々と、どこが違うというのでしょうか?

この時代にあって、世界も、私たち人間も、どうしようもなく劣化していっているのだと、そのように思われて仕方ありません。

4. 聖書が求める信仰は、狂信ではない!

今の時代のリベラル派の人々に対して、聖書をそのまま信じている。と言うと、狂信者扱いされることは珍しくありません。

A牧師からのコメントも、あなたは逐語霊感説の立場か、という問いが最後でした。
今の時代に、聖書をそのまま信じている、そんな狂信者と話し合う余地はない、ということなのだろうと思います。

かつてリベラル派に属していた頃の私もそうだったと思い返します。

逐語霊感説に立つ福音派というと、狂信的な原理主義者、そんなイメージが強烈にありました。ですから、福音派の人々と関わろうとか、まして話を聞くとか、議論するなど思いもいたりませんでした。

 

聖書の求める信仰は、狂信ではありません。

信じることには、決断が必要ですが、理性的、論理的であることも、とても大切です。

むしろ、とことん疑問をぶつけて、納得いくまで吟味することを、聖書自体が促しています。

福音派のクリスチャンの中には、聖書を神の言葉と信じるがゆえに、真剣に聖書と向き合い、とことん吟味をしている人々がたくさんいるのだということを、私は、出会いの中で知らされました。

5. 聖書を信じて、取っ組み合うからこそ、信仰は深まる。

聖書から本当に答えを得ようとするなら、信じることから始めなければならない。それが大前提です。

聖書は神の言葉だと信じて読むからこそ、そこに真理を見いだすことができます。

神を信じ、神と、人生と、取っ組み合うからこそ、そこに真実の答えを与えられます。

聖書すべてを、原典において、神ご自身が内容を保証されたものとして、わたしは信じていますが、だからといって、聖書を読んでいく上での葛藤がないかということ、そんなことはありません。

理解しがたいところもあるし、納得できないところもあります。

しかし、それでもこれは神の言葉なのだ。わたしの理性や思考を、この世界すべても時間をも超越した方の言葉なのだと、そのことを信頼して、あくまでも聖書の文脈に従って読み進んでいく時にはじめて、神からの答えを与えられるのです。

一見しただけでは、矛盾と思えたこと、とうてい納得しえなかったことが、聖書に対する理解の深まりの中で、ストンと腑に落ちる瞬間があります。

永遠の方である神のご計画の広がり、深さ。あらゆる苦難や不条理、私たちの自身の過ちすらも益として用いられる、神の不思議を思い知らされるのです。

その感動を伝えたいと、こうして、ブログにも書き連ね続けています。何より、神の言葉を解き明かすことに、喜びをもって取り組み続けています。

ずっと飢え乾きを覚えながら歩んできました。自分が求めているものは、こんなものなんだろうか。これでいいのだろうか。本当にこれが、神様が示された道なのだろうかと…。

紆余曲折ありながら、時には完全に誤った破滅的な道に陥りながらも、今があるのは、神様が憐れみもって忍耐強く導いてくださったとしか思えません。

私のような背教の罪人すら、主は救いへ導いてくださった。こうして書き連ねている原動力もただ、そこにあります。

主は私のようなものすら、救ってくださったのだから。今激しく対立し、敵意を向け、あざけりすら覚えているかもしれないその人をも、神は救ってくださる方だと。

【関連記事】

リベラル派クリスチャンの矛盾 正義を叫ぶ人にも潜む暴力性、逃れられない人の罪

 - 信仰の証し, 教会のいろいろ, 日々の雑感 ,