十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

心ふるえた、日本基督教団信仰告白♪ 日本キリスト教団北海教区定期総会にて 

2021/03/13
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

1. 3年ぶりの総会で味わわされた恵み

もう正式に退官しましたが、以前所属していた教団でのことです。すでに開拓を始めており、三年ぶりの教区総会でした。

開会礼拝で、日本基督教団の信仰告白を唱えました。心が震えました。

全て神の言葉である聖書が、唯一の聖典であり、キリストが私の罪のために十字架で死に復活されたこと。教会は、一つのキリストの体であること。

使徒信条にいくらかの説明を加えただけの極めてシンプルな教団信仰告白。それが、こんなにも響いたことはなく、アーメンと心の底から同意しました。

 

2.  わたしの立場

その時のわたしの教団内での立場は、「無任所教師」でした。どこの教会にも任命されていない牧師ということです。

鹿追キリスト教会は、その認可を得た教会ではありませんから、教団の事務手続き上、そういう扱いになるわけです。

牧師は、教団の教師資格を持っているけれど、教会は、単立で、聖書フォーラムという超教派的なグループに、ゆるやかにつながっている、ということです。

教派によっては考えられない形かもしれませんが、元々、多様な教派が合同してできた教団には、組織的にゆるやかなところがありました。

例えば日本基督教団内の「ホーリネスの群れ」に連なる人々は、外部のホーリネス教団とも親密な関係をもってらっしゃるようです。

私のように、聖書フォーラムというグループにつながりながら、教団の教師でもあるという形もアリだということです。

無任所教師には、教区総会への出席義務はありませんが、総会の案内は毎年届きます。

登録費を支払わなければならない上、あくまでオブザーバーとしての出席であり、議決権もなく、わざわざ出席するメリットがあるかと言われると、ずいぶん希薄です。出席など、正直考えたこともなかったのですが…。

今回、案内を手にして、ふと、行かなければならないと、強く思わされたのでした。

 

3.  教区、教団の現状

みんな年をとったなぁと、議場を見回して思いました。わたしもはたから見ればそうなのでしょう。

3年の間に、牧師の入れ替わりも結構あって、ちょっと浦島太郎な気分でした。一方、信徒議員の方々は、ほとんど顔ぶれも変わっていないようでした。

超高齢化による信徒の激減が予測されている日本基督教団。2030年には、最悪、現在の1/3にまで信徒が減少することが指摘されています。(日本基督教団2030年問題)

7つの教会があった道東地区では、この2年で、二つの教会の合併により、6教会に減りました。最後の二年は地区委員長も務めて、事情もそれなりに分かっている地区なだけに、わずかな間での大きな変化に、正直驚きました。

また、今回、教団からは、今後10年で20%の予算減が提案されていました。教団総会議員の半減などの大幅なリストラが主な内容です。

戦後、様々な宗教団体が大きく伸びた時期がありました。キリスト教界にとっても、ブームと呼ばれるような時だったと言われます。日本基督教団もしかりです。

しかし、それ以降大きな増加はなく、むしろ減少に転じて久しいのが現状です。

 

4. わたしの宿題

もう十年以上も前になりますが、教区総会の開会礼拝で説教奉仕をしたことがあります。

今思い返しても、地方の小さな教会で牧会を初めて間もない新米の牧師に、なぜ、そんな大役がまわってきたのか…。

そこでわたしは、罪などないんだ。というメッセージをしたのでした。今、思い起こすだけで、顔面蒼白の思いです。

私は、誰もが救われているんだ。という普遍的救いの立場から、さらに踏み込んで、そう語ったのでした。

原罪すら拒んだら、救いの原則は崩壊します。何より、イエス・キリストの十字架そのものを否定することになってしまいます。

 

その説教の後、一人、議場で抗議の声を挙げた方がいらっしゃいましたが…。

当時の議長は、よい説教だったと思うと弁護され、それ以上の議論にはなりませんでした。

今回、総会の合間に、個人的な通信を議員のみなさんに配ってきました。

聖書は神のことばだと受け入れ、悔い改めたこと。一から始めた開拓の歩みを主が憐れみ、恵んでくださっていること。この2年間の簡素な証しを、みなさんの教会の宣教の働きのために用いてくださいというお願いと共に記したものです。

 

5. 自ら蒔いた種の刈り取り

以前勤めていた教会は、リベラル的な信仰が伝統となっているような、そういう教会でした。

私は、そのただ中で悔い改めに導かれて、聖書をそのまま神の言葉として信じる信仰へと変えられたわけです。

リベラル派のクリスチャンからすれば、原理主義と呼ばれるような対極の立場です。

激しい抵抗を示されたのも、当然だったと思います。

 

ある時には、日曜日の食事中に、ふとしたことがきっかけで激しい議論が始まりました。

教会の役員やおもだった人々に、次々と、「キリストしか救いがないなんておかしい」「いろいろな立場を認めなければ」「牧師は偏狭だ」と、強い口調で言われました。

時間だけが過ぎていく中、わたしの手元に、食べかけのカレーが、冷たくなっていたのを覚えています。

そんな状況が2年は続きました。針のむしろとは、こういうことを言うのかなと痛感させられましたけど、何より、自分自身の蒔いた種の刈り取りをさせられたのだと思います。

彼らに投げつけられた言葉は、私自身が語っていた言葉なのですから。その点において、わたしに、何ら弁解の余地はありません。

 

6. 悔い改めの恵み

3年ぶりの教区総会で、教団信仰告白を唱えながら、心が震えて仕方ありませんでした。

主イエスが、わたしの罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、復活され、今も生きておられるのだ。ただ、その恵みによって、今を生かされているのだと。そのシンプルな福音が、こんなにも心に迫った時はありませんでした。

今回、総会への出席を促されたのは、このためだったのだと強く思いました。

主は、どれほどに、憐れみ、祝福してくださっているか。

わたしが罪のただ中にいた、あの時さえ、主は、憐れみの手を差し伸べ続けてくさっていたのだと。

 

御言葉が、心に迫ります。

「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」ローマ 5:8

ただ主に立ち返り、聖書は神の言葉だと受け入れた時から、私の新しい歩みも始まりました。

聖書だけにすがってきたその歩みが間違っていなかったと、この時を通して、主が確認させてくださったように思います。

 

「しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。Ⅱコリ3:16」

どんなに深い罪の中からも、立ち返る力を、主は与えてくださる方です。

通信を配っていたおり、一人の先生が声をかけてくださいました。「憑きものが落ちたみたいだな」と。

そう言われて、本当にその通りだと、自然と笑みがこぼれました。今ほど、私が自由であったことはなかったと、心から思います。

 

7. キリストの御体なる公同の教会

一方で、日本基督教団の置かれた状況の深刻さを、改めて痛感させられてもいます。

わたしのあんな説教が、おとがめなしだったということは、つまり、人の罪、十字架の贖い、復活という、教会の根本が崩れてしまっているということです。

性的欲望や聖餐式をめぐる問題も、同じ根っこから出ているように思います。

主イエスが、岩の上に教会を建てると言われた、信仰告白という岩の上に立っていないのなら、その教会はもはや、崩れ落ちていくだけの砂上の楼閣に過ぎません。

しかし、それでもなお主は、ご自身のみ体の一部である日本基督教団を愛しておられるとも、今回、強く実感させられました。

 

開会礼拝で、みなさんと献げた賛美に、大きな喜びがありました。

聖餐に、体が打ち震えるほどの恵みを感じました。教師の按手に、主が遣わされるのだという力強い後押しを覚えました。

主イエスは、日本基督教団を、そこに集う人々を、愛しておられる。み体の一部である教会を、こんなにも愛しておられる。

たとえ、主イエスが戸口の外で叩いているのだとしても。

この教会の時代の続く限り、主の愛は教会に注がれ続けるのだと確信させられました。

 

主に立ち返り、悔い改めるならば、ゆるされない罪はない。主の計り知れない恵みを味わわされています。

私の知らないところで、私のために祈ってくださっていた方も、いらっしゃったことと思います。

私もまた、主の御心に合わせて、日本基督教団という教会のために祈っていかなければならないと促されつつ、これを記しています。

私自身に、今後、日本基督教団とどういう関わりが与えられるのか、分かりません。ただ、主に与えられた使命に、これからも忠実に従っていきたいと願い、祈っています。

日本基督教団信仰告白

我らは信じかつ告白す。

旧新約聖書は、神の霊感によりて成り,キリストを証(あかし)し、福音(ふくいん)の真理を示し、教会の拠(よ)るべき唯一(ゆゐいつ)の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。

主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体(さんみいったい)の神にていましたまふ。御子 (みこ)は我ら罪人(つみびと)の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己(おのれ)を全き犠牲(いけにへ)として神にささげ、我らの贖(あがな)ひとなりたまへり。

神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦(ゆる)して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果(み)を結ばしめ、その御業(みわざ)を成就(じゃうじゅ)したまふ。

教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。教会は公(おほやけ)の礼拝(れいはい)を守り、福音を正しく宣 (の)べ伝へ、バプテスマと主の晩餐(ばんさん)との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。

我らはかく信じ、代々(よよ)の聖徒と共に、使徒信条を告白す。

 

使徒信条

我は天地の造り主(ぬし)、全能の父なる神を信ず。我はその独(ひと)り子(ご)、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女 (をとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇(のぼ)り、全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。

我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず。アーメン。

(1954年10月26日第8回教団総会制定)

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