ポストモダンのクリスチャンは、感じるまま、欲するまま? 人の欲望についてのイエスの指摘に学ぶこと。
目次
1.炎上したやりとりの中で
前回、前々回の、同性愛についての記事のリンクをFacebookにあげたところ、また見事に炎上しました。
抗議のコメントがいくつかあり、何人かの方とのやりとりがありました。返信しながら改めて感じたのは、問題の根の深さです。
まず、なかなか議論らしい議論に発展しないことが一つ。
最近の社会的な風潮として、議論自体が避けられる傾向が強いと思います。既存のキリスト教界も例外ではありません。
「神学論議」というと、無意味なことの象徴のように用いられる言葉ですが、言葉で説明できなかったら、力でごり押しする他なくなってしまいます。
議論ができず、感情的な反発だけという姿勢は、容易に暴力に結びつきかねない、非常な危険性をはらんでいるのではないでしょうか?
使徒たちは、反対者に、言葉をもって福音の正しさを弁証しました。
クリスチャンは、何に基づいて弁証するか、もちろん聖書です。
御言葉に基づく弁証。それだけが、クリスチャンが身に帯びる武具です。
2.聖書に根っこがない「信仰」
改めて感じたのは、その人々の信仰は、聖書に根ざしたものではない、ということです。
聖書にどう書いてあるのか、と問い詰めていくと、「聖書などどうでもいい」、「自分の魂がそう言っている」という答えが返ってきます。
そもそも聖書を信じていないということなら、聖書にこう書いてあるから、こう理解すべきだという主張自体が通用しません。
”わたしの罪のためにイエスが十字架にかけられた。”という、核すら信じていない人が、クリスチャンを名乗っていること自体が不思議なことだと改めて感じました。
いずれにせよ、“イエス・キリストは、わたしの罪のために十字架で死に、葬られ、復活された”と信じていないのなら、その人々は、いかなる意味でも、クリスチャンではありません。
その人々の信仰が聖書に根ざしたものでないなら、一体、どこから来ているのでしょうか?
3.ポストモダンのクリスチャン
「わたしの魂がそう言っている」という、ある人の言い方が、象徴的だと感じました。
原罪も、罪の贖いも信じていない人々が、主張の土台にしているのは、結局のところ、自分の感覚だけなのです。
現代は、ポストモダンの時代と言われます。
絶対的なものも、真理もない、すべてが相対化された世界です。
この時代に、多くの人々は何を基準にしているかというと、結局、自分の感覚であり、感情なのです。
自分の感覚が絶対、それがポストモダンの時代です。
時代の価値観に、無批判に乗っかっているだけの「クリスチャン」が、いかに多いことかと思います。
「聖書も、教団の信仰告白も、どうでもいい、しかし自分は、リベラルではない」と、そのように主張されている牧師がいました。
自分の感覚が絶対のクリスチャン。その人々を、ポストモダンのクリスチャンと呼ぶのが最適かと感じています。
炎上の発端になったのは、いわゆる「同性愛」に関するわたしの見解でしたが、ことの本質は、「愛」についてではなく、「性的欲望」の問題だと、わたしは強く感じています。
純粋な愛は、性差も、年齢も関係なく、育むことができるものです。
ダビデとヨナタンのような愛、イエスと弟子たちのような愛を育まれるなら、それは素晴らしいことです。
真実の愛の関係は、性行為も性的欲望も必要としません。
ですから、キリスト教会に対する同性愛者の主張の本質は、「同性間の性行為、性的欲望を認めて欲しい」ということなのだと、とわたしは捉えています。
人の欲望について考えるなら、これは何も、同性愛者だけが、特別な主張をしているわけではないと思います。
この時代にあって、多くの人々が、ただ、自分の欲望が認められることを、権利として求めているのではないでしょうか。
自分の感情が絶対というポストモダンの世界とはつまり、自分の欲望を満たすことが一番とされる世界であり、それこそ、私たちクリスチャンが向き合うべきものだと実感させられています。
際限なく欲望を認めていけば、どうなるでしょうか?
現在、社会的に深刻な問題となっているのが、小児性愛者による子どもへの性的虐待です。ただ己の欲望を満たすために、子どもの命までも奪う非道な事件が起こっています。
いくら性的指向の多様性が許容される現代社会においても、さすがに小児性愛者の性行為を認めようということには、ならないでしょう。それは即、子どもの性的虐待につながるからです。
ポストモダンのこの時代にあっても、“性的欲望には、どこかで一線を引かなければならない”という点は、同意されていると言えるのではないでしょうか。
聖書は、その一線を、結婚した夫婦と、それ以外の間に明確に引いているのです。
聖書は、人の欲望が罪の引き金となったことを記しています。
アダムとエバが、善悪を知る木の実だけは食べてはならない。というたった一つの約束を破ったのは、自らの欲望のゆえでした。
聖書は、人間の欲望の本質を「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢(生活のおごり)」と記しています。(Ⅰヨハ2:16)
人間には、自分の欲望をコントロールできない。
だからこそ、神は、救い主をお送りになり、今、聖霊が、助け手として信じる者の内に住まわれているのです。
4.イエスは、人の欲望について、どう言われたか?
ポストモダンのクリスチャンの特徴として、神の愛は強調するけれど、裁きについては全く触れないことがあります。
よく言われるのは、旧約の神は裁きの神だが、新約の神は愛の神である。イエスは、愛と赦しを説かれたのだ、と言うようなことです。
果たして、本当にそうなのでしょうか?
結論から言えば、神は、一貫して愛と義(裁き)の神であり、神の子イエス・キリストも、同様です。
新約聖書中、最も多く、最も厳しく、裁きについて語っているのは、パウロでもペテロでもなく、イエス自身です。
①律法の成就のために来られたイエス
マタ5:17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。
イエスは、「昔の人の言い伝え」に過ぎない口伝律法は、全てこれを拒否されました。
口伝律法とは、人が付け加えた、人の掟です。
一方、イエスは、神の律法は、これをすべて守られました。イスラエルの誰一人として、守り切れなかった律法を、唯一完全に成し遂げられたのが、イエス・キリストでした。
これにより、律法とは、そもそも、メシア・救い主である、イエス・キリストを表すものだったと明らかにされたのです。
②イエス御自身の律法解釈
メシアであり、アブラハムが生まれる前からある(ヨハネ8:58)と言われた、主イエスが、直々に律法解釈について、語られたのが、マタイ5~7章の「山上の垂訓」と呼ばれるところです。
マタ5:27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
5:29 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。
5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
聖書における姦淫とは、結婚外のすべての性的関係を指します。律法によれば、あらゆる姦淫は、死罪にあたります。
さらにイエスは、心の中の姦淫までも、問うているのです。
「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。(マタイ5:28)」
これは当然、すべての姦淫に対して適用されることでしょう。
心の中までも問われるなら、一体誰が、罪を犯さずにいられるだろう? それが、イエスが、私たちに突きつけていることです。
「義人はいない、ひとりもいない(ローマ3:10)」のです。
マタイの山上の垂訓を読んで、絶望した作家がいたそうですが、その絶望は正しいです。
罪の結果は死であり、その先に待ち受けるのは、永遠の滅び、地獄です。
右目が、右手が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出し、切り落とした方がましだとイエスは語ります。
そんなことをしていたら、いくら体があってもたりません。私たちは、このままでは、どうしたって、罪から逃れられないのです。
これは、イエス・キリストの、人類全体に対する、明確な有罪宣言として受け取ることができます。
罪について、裁きについて、新約聖書でも最も多く、最も厳しく語っているのは、他ならぬイエス・キリストご自身です。
愛について語られたところよりも、むしろ、裁きの方が圧倒的に多いのです。
すべての人は、どうしようもなく罪人である。
それが、聖書が明確に、私たちに突きつける、逃れられない現実です。
③だからこそ、イエス・キリストは来られた。
当時の価値観では、金持ちであることは、神の祝福のしるしでした。信仰の面から言えば、彼らは、口伝律法を事細かに守っている人々でもありました。
しかし、イエスは、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。(マタイ19:24)」と断言されました。
「それでは、いったい誰が救われるのだろうか」
イエスの厳格な有罪宣言に、弟子たちは驚愕しました。
「人間にできることではないが、神にはできる」 それが、イエスの答えです。
神が実行された、その方法が、神のひとり子が、まったく罪のない身で、十字架にかけられ、神の怒りを身に受けられるということでした。
神でなければ、身代わりとなって罪を赦すことはできない。人でなければ、死ぬことはできない。
それは、完全に神であり、完全に人である主イエス・キリストだけが、なすことのできる救いの業でした。
その死は、絶望に終わらず、イエスは、陰府から死を打ち破って復活されました。
律法が定めた過越祭の、祭司のための傷もしみもない犠牲の小羊が捧げられるその日に、主イエスは、十字架にかけられ、その年の収穫の初穂が捧げられる初穂の祭りの日に、復活されました。
律法に定められた祭りもまた、主イエスを表すものだったと明らかにされました。
聖書全体が、明確に、私たちの罪の身代わりとしてのイエスの死を記しています。
誰一人として、罪と、その結果である死から逃れられません。
しかし、すべての人に、救いの手が差し伸べられています。
救われるために必要なことは、たった一つ。福音を信じること、それだけです。
つまり、神の子イエス・キリストは、わたしの罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、復活され、今も生きておられる、と。
コリント人への手紙一 15:3~11
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。
15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。
15:8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。
15:11 とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。【新改訳2017】
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