Q:救いが失われることもあるのでは? 永遠の保証
目次
Q:聖書を読んでいると、一度与えられた救いが失われることも、やっぱり
あるんじゃないかと思えてならないのですが…?
1. 失われることがあるなら…?
聖書の救いは、永遠の滅びからの、永遠の救いです。
失われる可能性があるなら、それは救いとは言いません。
滅びにいたるかもしれない命は、永遠の命ではありません。
最終的な結果が、神の裁きの座に立つまで分からないなら、救いは、人間的な努力の結果だ、ということになります。
人間が行いによって救いにいたることができるなら、キリストによる罪の贖いは、まったく無意味です。
内住される聖霊には、人を変える力はない、ということにもなるでしょう。
さらには、反故にされることもあるというなら、神の約束に対する信頼も失われます。
このように、救いは失われることもある、と言った途端に、聖書の救いの教えはすべて、根底から崩れさってしまうのです。
「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。ヘブル人への手紙10:14」
救いが失われることがある、と言うのは、キリストの一度きりの完全な犠牲を否定するものです。
また、救いは失われることもある。と言うなら、それは、教会の兄弟姉妹の関係にも大変な悪影響を及ぼすことになるでしょう。
牧師やリーダーが、信徒に向かって、あなたの救いは失われることもあるのだ、と言うなら、脅しです。
「あなたは、十分に献金しているのか。礼拝の態度はどうなのか、救いが失われかねないぞ」などと言い出せば、その教会は、容易にカルト化してしまうでしょう。
2. 元々、信じていなかった?
あんなに熱心だったのに、教会から完全に離れてしまって、聖書も読まないし、祈りすらしなくなってしまった…。そんな状況に陥ってしまう人は、確かにいます。
聖書にも、そのような人のことが記されています。
「サタンに引き渡されたヒメナイとアレクサンドロ(Ⅰテモ1:20)」、「ピレト(Ⅱテモ2:18)」、「世を愛しパウロを見捨てたデマス(Ⅱテモ4:10)」などです。
なぜ、そんな状況に陥ってしまう人がいるのでしょうか。
救われるためには、真実の回心が必要です。
つまり、主イエスについての正しい知識と、それに対する同意と、そして信頼です。
今の時代に、救われるために信じるべきは、「イエス・キリストが、わたしの罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、復活した」という福音です。
この福音の知識を得、同意し、そして信頼したときに、救われるのです。
しかし、福音の知識と同意はあっても、主イエスを個人的に信頼していない、という人がいるのです。
その究極の存在が、悪魔(サタン)や、悪霊です。
「あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ヤコブ 2:19」
ここでの「信じる」は、ただの事実の確認であって、個人的信頼ではありません。
たとえ、信じますと口で言っても、信頼がなければ、意味がありません。
イエスは、裏切り者ユダのことを、12使徒を選んだその時から、「悪魔だ」と言われています(ヨハ6:70)。
ユダは、もともと信じていませんでした。
しかし、過越の晩にイエスが、裏切り者がいると言われた時、ユダを疑う者はいませんでした。
ユダは、人々の目には、熱心な弟子だと映っていたのです。
信仰が失われたというのは、“人間の視点からは、そう見える”ということに過ぎません。
神から見れば、その人は、元々信じていなかったということなのです。
同じことが、神の性質についても言えます。
「神は覚えておられた」とか「悔やまれた」という表現が聖書には度々ありますが、神が考えを変えられたとか、後悔されたということではありません。
天地を造られた神は、全知全能の方です。
神の計画は完全に全うされますし、神は約束を必ず守られます。
一本の髪の毛も、一羽の雀も、神のゆるしなしに落ちることはないのです(マタイ10:29,30)。
「覚えておられた」とか「悔やまれた」というのは、人間の側からは、そう感じられた、ということにすぎません。
3.信仰が後退してしまった?
もう一つ、すっかり信仰が後退してしまうということがあります。
イエスは生ける神の子キリストだと、歴史的信仰告白をしたペテロは、イエスを三度も否認し、呪いました。
後退しきったペテロが犯した罪は、裏切り者のユダとも大差ないものです。
そのペテロが悔い改めに至ることができたのは、主イエスが、ペテロの信仰がなくならないようにと祈られたからでした(ルカ22:32)。
主に信頼を寄せるペテロの信仰を、主が守られた。これが神による救いの保証です。
教会時代の今は、信者の信仰を、内住される聖霊が守ってくださっています。
一方、裏切ったユダは、自分の行為を後悔はしても、主への悔い改めには至らず、自ら滅びに陥りました。
主を信頼しない者は、もともと、主の守りの内にはないのです。
まとめ 永遠の保証あっての信仰生活
信仰が後退しきった信仰者と、不信仰者とは、外面的な区別はつきません。
真実は、主に委ねるしかありません。
主イエスが告げられたように、地域教会には、麦と毒麦が混ざりあっていますが、誰がどうか、という判断は主に委ねるべきです。
その人が、主を一度、信頼したのならば、その信仰を神ご自身が守ってくださいます。
このように、救いの永遠性を信じることは、教会の兄弟姉妹のお互いの関係においても、信頼のいしずえになっています。
信じた者にも、この世において、自分自身の蒔いた種の刈り取りはあります。
たとえ、命をとられるような懲らしめがあったとしても、その救いは決して失われることはないのです。