十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

Q:牧師には、従わなければならないの?

2021/03/31
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

Q:牧師の命令には、従わねばならない、と言われたのですが、
理不尽なことでも、文句を言ってはいけないんでしょうか…。

1. 指導者が、「わたしに従え」なんて言える?!

「牧師に従わなければならない」と言われる教会、けっこうあるようです。

神の立てた指導者に従うことを、聖書は確かに、信者に求めています。
しかし、教会指導者に従いなさい、という直接的な命令は、わずかです。

 

新約聖書では、「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさいⅠペテ5:5」という一カ所だけです。

(初代教会の長老には、牧師や教師も含まれます。)

この言葉は、長老に向けて書かれた中で言われていることです。

前提として、3節にこうあります。
「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。Ⅰペテ5:3」

長老、教会指導者に求められているのは、人々を言葉や力で支配することでありません。

自分自身が模範となって、自発的な参加を促すことです。

 

聖書は、指導者が人々に、「わたしに従え」と命じることは、認めていません。
誰かに従いなさいという命令が、一方的になされていることもありません。

たとえば夫婦関係で、「妻は夫に従いなさい」という命令がありますが、これは、「夫は妻を愛しなさい」という命令と対になっています。(エペ5:22~25)

「夫に従いなさい」というのは、あくまで、妻に対する神様からの命令です。

夫が、「俺に従え」と妻に命令することではありません。それは、愛ではないですよね?

夫に命じられていること、夫にできるのは、妻を愛することだけ、なのです。

同様に、牧師や長老、役員などの教会指導者が、信者に対してできることは、人々の模範となり、仕え、愛することだけです。

誰も、「わたしに従え」などとは言えないのです。

 

主イエスは、最後の晩餐で弟子たちの足を洗われました。
当時、奴隷の仕事とされていたことです。

教会の指導者となる弟子たちに、イエスは、互いに仕え合うことを求められたのでした(ヨハネ13章)。

使徒たちも同様のことを繰り返し語っています。
「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。エペ5:21 」

 

2. 第三者は牧師に従えと言える?

「俺に従え」という牧師がいたら、そんな教会からはすぐさま離れるべきだと思いますが、さすがに、そこまであからさまに言う人は、めったにいないでしょう。

では、教会の兄弟姉妹から、「牧師に従いなさい」と言われる場合はどうでしょう?

原則は、やはり同じです。

指導者への従順は、神からの命令ですから、誰かに強制されてするものではありません。

牧師が同席している場で、誰かがあなたに、「牧師に従いなさい」と言って、牧師がそれを止めもせずに沈黙しているならどうでしょう?

それは、牧師が直接「俺に従え」と言ったのと同じことです。

 

3.従うべきは、主なる神お一人!!

信仰的な問題についてある人と面談していたとき、「教会として命令されれば従います」と言われて驚いたことがあります。

納得されているようには全く見えないのに、命令されたら従うとはどういうことかと困惑しました。

その人自身が、かつて所属していた教会で、教会や牧師には絶対的に従うべきと指導されていたようです。

しかし、外面的にどんなに忠実でも、心からの行為でなければ、聖書的には全く意味はありません。

 

「指導者に従え」などと命令される教会は、簡単にカルト化しかねません。
とても危ういものを感じます。

残念ながら、そんな教会は少なくありません。
聖書的根拠もないのに、なぜ、そうなってしまうのでしょう?

 

一つは、牧師、指導者の保身からきているのだと思います。

社会経験が豊富にある方でも、いざ牧師や長老という立場になると、別物の苦労を味わわれるようです。

牧師のところには、教会の内から外から、人生のありとあらゆる問題が、四六時中、のべなく持ち込まれます。

その境界線が、とってもとりづらいのです。

信者の中には、極度に依存的な人や、牧師や教会をコントロールしようとする、支配的な人も少なくありません。

反抗する人は山ほどいても、素直に牧師の言うことを聞いてくれる人など、残念ながらめったにいません…。

心身を病んだり、辞めてしまったり、追い詰められていく牧師は多いのです。
モーセをはじめ、聖書の指導者たちはみんな、同様の苦悩を抱えています。

そんな中で、神の権威に乗っかって、「私に従え」と命令し、力で押さえ込もうとするのは、安易な道なのです。

 

癒やされない傷を抱えたままの牧師もやっかいです。

被害者意識の強い人ほど、他者を攻撃して、自分を正当化しがちです。

自分の弱さや欠点を認められない牧師が、権威というヨロイで身を固めていってしまうのです。

 

中には、もともと支配的な人だったという牧師も少なからずいるでしょう。

そういう人々は、自分の支配欲を満足させられる場所として、教会という働き場を選んだのです。

支配的な人にとって、宗教指導者という立場は、非常に魅力的なのだろうと思います。

役員、長老など、信者の中にも、教会の中で支配的な人というのは、けっこう見られます。

支配的な人にとって魅力的な教会とはどういうことなのか…。地域教会自体のありようから見直す必要があると思います。

 

牧師に与えられている権威とは、御言葉に伴う権威です。

つまり、聖書の御言葉を、主の御心に従って説き明かしていくところに、神の権威が現れるということです。

牧師個人に、権威が与えられているわけではありません。

個人的な信仰の領域で、牧師が信者に問えるのは、
「イエスさまは、あなたにどう言ってますか?」 ということくらいです。

「わたしに従いなさい」となんて言葉は、主ご自身だけが言えることです。

 

聖書の御言葉で導くしかありませんから、牧師には、教える賜物が必須です。

聖書を論理的に、分かりやすく説き明かすことができない人が、牧師になってしまうと、悲劇です。

 

結論: じゃあ、いったいどうしたら?

教会指導者の本来の役目は、信者一人一人を神様とつなげていくことです。

一人一人が、神との直接の関係を築き、神に育まれていくように、導き、促すのです。

その土台となるのが聖書です。

聖書を本来の文脈に従い、説き明かしていく時、主ご自身が、ご聖霊が、その人個人に人格的に働きかけ、導き、成長させていってくださいます。

 

そして、もう一つ重要なのは、兄弟姉妹同士の関係です。

お互いに、主に選ばれた弟子として、同労者として、仕え合い、励まし合っていくことが求められます。

一人一人が、御言葉を学び、その本当の意味をしっかり味わっていく、人ではなく主なる神に仕えていく。

その時、教会は、豊かな関係に基づく共同体へと変えられ、成長させられていくのです。

 

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