十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

Q:牧師に、逐一報告しなきゃいけないの?

2023/03/15
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

Q:他の教会の礼拝に出席する時、他の教会の人に会うときは、牧師(リーダー)に、報告しなきゃいけないと言われたのですが…。

1. クリスチャンにとっての地域教会

クリスチャンにとって、地域教会とは、一番身近な家族のような存在でしょう。

所属する教会の礼拝に出席し、主にある兄弟姉妹と交わるのは当たり前のことです。

そのような関係性なしに、クリスチャンの信仰が成長することはありません。

家族なのに、家族と一緒に過ごさないのは、不自然です。

同じく、所属している地域教会に行かないで、他の教会ばかりに行っているなら、それもやっぱり、不可思議なことです。

 

2. 報告義務など、ありません。

しかし、他の教会の礼拝に出席する時や、他の教会の人と会うときに、それを逐一牧師に報告しなければらならない、というのは、どうなのでしょうか?

少なからず、そういう指導をされている教会があるようで、気になっています。

 

確かに、いつも出席されている方が、連絡もなしに欠席されれば、何かあったのかと心配になります。

一声かけていただけたら嬉しいな、とは牧師として思いますし、先週はどうされたんですか、とおたずねすることもあります。

また、信仰の歩みには、誰しもアップダウンがあります。

霊的な状況はどうなのかな? 信仰が後退していないかな? という状況の方に、促す意味で、声をかけることもあるわけです。

でも、それを、“牧師に報告しなければならない“と、義務にしてしまうなら、別の問題が生じてくると思います。

 

聖書に、指導者への報告を義務として命じている箇所など、ありません。

報告するかしないかは、お互いの関係性と信頼に基づいて、各人が判断すればよいことでしょう。

同様に、他の教会の信徒が礼拝に出席したことを、相手の教会に報告する義務もありません。

他の教会の信徒の方が、礼拝に出席されるときに、話せる理由があれば、本人から話されます。

だいたいは、帰省や旅行、仕事で、近くまで来ていて、といったことです。

所属教会の牧師との信頼関係があれば、「来週は、あの教会の礼拝に出席します」などと、本人から自然と報告がされるでしょう。

 

問題となるのは、当人に話せない理由がある場合、です。

話をしていて、何かあるのかなと察することがあります。でも、だからといって、あえて、どうしたんですかと聞くことでもありません。

所属している牧師や教会に感情的なしこりがあって…という場合でも、それが一時的なことに過ぎないなら、自然に解消することも多いだろうと思います。

本人に原因があったという場合は、なおさらですね。

続けて礼拝にこられて、ということになれば、その時になってはじめて、どうしたんですか? とおたずねすることになるでしょう。

多くの教会では、そのように自然に対応されていることと思います。

自然な対応で収まらないなら、そこには何か別の問題が潜んでいる可能性があります。

 

3. むしろ話してはならない場合!!

誰が来ていたか、当人の所属教会の指導者に、むしろ話してはならない、という場合もあります。

その所属教会が、カルト化している場合です。

逃れてきた人のことを、元のカルト教会に教えてしまったら、最悪、本人や関係者に直接的な被害が及ぶ場合も考えられるからです。

異端やカルトから逃れてきた人がいたら、受け入れ、身の安全を確保することも、地域教会の大切な使命の一つです。

その教会が本当にカルト化しているのか否か。客観的な基準による判断が必要なのは、もちろん言うまでもありません。

 

4. 私的領域を侵すのが、カルト!!

「先生と呼ばれてはならない」と主イエスが弟子たちに命じられているところがあります。(マタイ23:8~10)

この箇所を理由に、「先生」という呼び名を使わないグループや地域教会もあります。

しかし、リーダーのことを兄弟と呼びながら、それでもカルト化している教会もあります。

指導者の呼び名とカルト化とはまた、別な問題です。

「先生」というのは、日本では一般的に用いられる敬称ですが、ここでは、「先生」という敬称の是非についてのべているわけではありません。

この箇所で主イエスは、「先生」「父」「師」と呼ばれてはならないと命じられています。

「先生」と訳された原語は「ラビ」。当時のユダヤの律法教師のことです。同じく、「父」「師」もラビの呼称です。

当時のラビは、弟子に対しては絶対的な存在でした。

弟子は、公私に渡って、徹底的にラビへの従順を求められたのです。結婚相手や仕事もラビが決めました。

実の父とラビが同時に溺れていたら、霊的父であるラビを助けなければならないと言われていたほどです。

主イエスが弟子たちに戒められたのは、「先生」「父」「師」などと呼ばれ、弟子の私的領域まで支配する、ラビのようになってはならない、ということです。

 

信徒を管理し、逐一報告させるなどというあり方は、主イエスの命令に反することだと思います。

リーダーが、信徒の仕事や家庭、住まいなど、個々人の私生活にまで介入し、支配していく。それは、カルトの典型的な特徴でもあります。

仕事や家庭、プライベートな領域のことまで、牧師や指導者に相談しなければならないなどということがあったら、それこそ、主イエスの教えに反しています。

 

5. 主が求められるリーダーとは?

主イエスは、多くの弟子たちの中から12人を使徒として選びました。

「わたしの羊を飼いなさい」とペテロが命じられたように、使徒たちは、主イエスが選んだ教会のリーダーでした。

主が求められたのは、主イエスご自身が弟子たちの足を洗われたように、互いに仕え合うことです。

 

使徒たちは、仕えあう、という、サーバントリーダーシップを、そのままに実践していきました。

教会の迫害者から使徒となったパウロは、3年間の独自の歩みの後にペテロたちと会い、信仰の一致を確認しています。

3回に渡る宣教旅行では、各地を訪れて、多くの地域教会をたて上げて行きましたが、上部組織に、いちいち連絡をとるようなことはしていません。

そもそも、上部組織など、ありませんでした。

使徒の働きのダイナミックさは、一人一人が、直接、聖霊の命令に従って遣わされていくところにあります。

 

律法の時代とは異なる、今の教会時代の最大の恵みは、信じた者の内に、聖霊が住まわれていることです。

つまり、誰もが、聖霊により、神と直接につながり、導かれていくことができるのです。

クリスチャンはもはや、主イエス以外の仲介者を必要としていません。

教会のリーダーの役割とは、一人一人が聖霊によって神との親密なつながりを築いていくことができるよう、御言葉を説き明かし、サポートしていくことだと言えるでしょう。

ただ福音を信じて救われたクリスチャンは、キリストにある自由を味わうよう召されています。

クリスチャンの自由とは、内住される聖霊に自発的に委ねることで、はじめて味わうことのできる自由なのです。

 

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