Q:棄教する牧師や、クリスチャンが、なぜいるの?
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Q:けっこう名の知られていた牧師やリーダーが、棄教したなんて話を相次いで聞き、絶句しました。なんで、こんなことがおこるのでしょう?
1. 初めから信じてなかった!
棄教した牧師となると、さすがにそうそういませんが、とても熱心だったのに、すっかり離れてしまったというクリスチャンは、少なくありません。
考えられる原因は、①信仰の後退か、②もともと救われてなかったか、です。
はっきり棄教したということなら、②のケースでしょう。
棄教したというある牧師について、私がネットで知り得た範囲では、彼は、両親が熱心なクリスチャンの、クリスチャン2世だったとのこと。
クリスチャンホームに生まれ育ち、キリスト教的価値観を当たり前に身につけ、信仰告白し、受洗し、神学校へ行き、牧師になり、信仰書まで書いた。
しかし、キリストを個人的に信頼してなかった、信じていなかったのです。
2. 同調圧力という罠
その牧師は、端から見れば、紛れもなく熱心な信仰者だったことでしょう。
なぜ、こうなってしまったのでしょうか?
文化というのは、自動的に身につくものです。子どもは、その家の文化を無意識のうちに、自然に身につけていきます。
棄教したその牧師も、クリスチャンホームで、キリスト教的文化を自然に身につけていったのでしょう。
しかし、救いは、自動的に得られるものではありません。福音を理解し、キリストに個人的信頼を置く必要があります。
それが、聖書が求める、信じるということなのです。
キリストへの個人的信頼がないなら、それは、救われていない、形ばかりのクリスチャンということになります。
形ばかりのクリスチャンは、なにも二世に限りません。
「これだけ、お世話になっているのだから、そろそろ洗礼を受けた方がいいかな」、なんて考えてしまう人がいるのです。
周りに合わせようとか、周囲の期待に応えたいとか、そうなってしまうのが人間です。
人は、自ずと忖度してしまう。同調圧力に、とても弱いのです。
前述の牧師は、きっととても真面目で、周囲の期待に応えようとする意識も強かったのでしょう。
両親も有名なクリスチャンだったと聞きますから、なおさらです。
しかし、表面上、どんなに熱心で、どれほど聖書知識に富んでいようとも、キリストへの個人的信頼がなければ、何の意味もありません。
「愛がなければ、無に等しい(Ⅰコリ1:32)」とある通りです。
3. 人の弱さを覚えていよう
人は、同調圧力に弱いのだ、という意識がまず必要でしょう。
周りに合わせて、相手の期待することを、思ってもいないのに、やってしまう。
あるいは、自分の心情も押さえ込んで、こうなんだと自分で自分を信じ込ませてしまう。よくあることなのです。
そのような人間の性質を巧みに利用しているのが、カルトだと言えます。
導く側にも、その意識が必要です。
本当に自発的な応答になっているのか。
何か、そう言わなきゃいけない、といような、有形無形のプレッシャーを相手に与えてしまっていないか。
周囲の期待に応えること、評価されることを一番にしている人ほど、形式的信仰に陥りやすい傾向があります。
喜びがあるかどうかは、一つの大切な判断基準です。
しかし、神様への愛から湧き上がっている喜びなのか、それとも、周囲の評価が嬉しくて喜んでいるだけなのか。
その見極めは、難しいところがあります。
結. 主にゆだねつつ、ともに歩もう
心の中は、誰にも見えません。その人が、本当に信じているかどうかは、誰も確認できないのです。
だから、「聖化」と呼ばれる、信仰の成長の課程を歩んでいくことが、とても大切なのです。
「自分は本当に救われているのか」という疑念に、誰もが襲われるものですが、それが少しずつ確信に変えられていくのが、信仰の成長です。
信仰の成長のために、まず必要なのが、聖書知識です。
信じた者が、どのような誘惑や試練に遭い、どうやって打ち勝つことができるのか。それは、聖書に書かれています。
神様の計画を知れば、今がどんな時代で、どんな困難があるか分かります。
常に揺れ動く人の心や感情とは違い、客観的な知識、真理は、揺れ動くことがありません。これは、大切な土台です。
そして、励まし合える信仰の兄弟姉妹を持つことです。
大切なのは、率直で正直な、双方向の関係性です。
様々な課題を抱えたありのままの自分を、それでも神に愛され、赦された者として、お互いに認め合うことができる。
正しい聖書知識の理解の深まりと、兄弟姉妹との率直な信頼関係。その大切さを繰り返し教えられます。
その牧師の棄教は、確かに残念なことですが、本当のことが明らかになったという点では、よかったのでしょう。
本当は信じていないのに、牧師を続けることほど、本人にも周囲にも悲劇的なことはありません。
本人も、これ以上、周囲に取り繕うことは、何もないわけです。
彼は、本当の意味で、主と出会う下地が整えられたと言えるかもしれません。
最終的な希望は、いつでも全知全能の主にあります。
自分のような人間が、どうして信じることができたのか。神ご自身の憐れみに満ちた働きかけあってのことだと気づかされるのです。
その一方的な恵みを味わう時に、主にあって、救われる希望のない人など一人もいないと教えられます。