Q:マインドコントールって、どういうことですか?
目次
Q:カルトでマインドコントロールされるって、どういうことですか?
へんなヘルメットをかぶせられて、電気がビビビ!! …じゃないですよね?
1. マインドコントロールとは?
通常ならおかしいことに気づくことができず、本人に自覚のないまま、他者に操作されている状態を指します。
2. マインドコントロールに陥るまで
①入り口は広く、優しく、親切に
カルトの勧誘は、優しく親切です。初めての人は、大歓迎されるでしょう。「愛の爆弾」とか、「ラブシャワー」などと呼ばれるものです。
誰でも、親切にしてくれる人には好意を抱くものですし、相手を失望させたくないという思いを持ちます。ついつい、相手の望む反応をしてしまうのです。
そういう心理を巧みに利用する術を心得、身につけているのがカルト指導者だと言えます。
②あなたのニーズに応えてくれる
人生の真の目的、世界の謎が分かりますとか、あなたを愛します、などと、その人のニーズに合わせて語りかけてくれます。
③教理が延々と教えられていく。
生じた疑問は、学んでいけば分かるとごまかされます。愛の実践こそ大事で、考えこむのがおかしいなどと言われます。
学びを始めたら迫害が起こると、あらかじめ告げられたりもします。
長時間、祈り続ける、断食させるなど、心身にストレスをかけて、暗示にかかりやすい状況が作り出されます。
また、「○○先生に賞賛された」などと、権威を最大限利用します。
3. マインドコントロ-ルの実体
①情報のコントロール
外部からの情報を遮断するために、メンバーだけで住まわせたり、あるいは、外部との接触が堕落につながると教え込んだりします。
他の教会の牧師や信徒との交わりを禁じ、指導者の許可を求めさせたりするのです。
②行動のコントロール
プライバシーや自由な時間、行動が奪われていきます。金銭の使用や衣食住すべてにも統制が及んでいきます。その権限は、指導者の手にあります。
奉仕に追い立てられ、常に心身が疲労した状態に置かれます。しかし、その厳しさこそ、指導者の愛の現れだと、かえって魅力を高めていくのです。
模範的なメンバーは皆の前で誉められたり、ご褒美を与えられます。
一方、指導者の気に召さなければ、公然と叱責されたり、厳しい自己反省を強いられたりします。
メンバーは、指導者の極端なアメとムチにより、無条件に服従するよう条件付けられていきます。
③思考のコントロール
繰り返し唱えられるスローガンや教理を、反復して学ばされていきます。
その集団内だけで理解される特殊な用語が用いられることも多く、その言葉を聞くたびに、スローガンや教理を思い起こさせられるのです。
日常的なことまで報告を求められ、意思決定権は指導者に明け渡されていきます。
自由に考えられなくなり、ついには、自分で考えること自体に、罪悪感や恐怖感を抱くようになっていきます。
④感情のコントロール
集団のメンバーであることの特権意識や誇りが高められ、強められます。
結束が強められる一方、外部の集団に対しては、冷笑や蔑視のような否定的な感情を抱かせられていきます。
また、“外部の集団から、いわれのない迫害や攻撃を受けている”という被害者意識が煽られていきます。
メンバーが疑問を抱くことのないよう、時間的余裕も奪われます。危機感が煽られ、目前の目標達成のために邁進するよう強く促されます。
その集団内だけが安全な場所であり、外に出れば破滅が待っている、というような恐怖心を植え付けられます。
離脱が脳裏をよぎるだけで、動悸がし、パニック状態に陥ったりもするのです。
4. 自分は大丈夫、は、とっても危険
強制だと感じさせないで、当人の心を巧みに縛っていくのが、マインドコントロールです。
選択する自由が奪われてしまっているのですが、当人に自覚がないのが、厄介なところです。
マインドコントロールの状態に、時間をかけて、少しずつ陥って行くのです。
ですから、カルト被害者の心身の回復には、その集団に関わっていたのと同じか、それ以上の時間が必要とされると言われるのです。
カルトは、多くの犠牲を求めます。それまでの人間関係や仕事や生活も奪われてしまった後に、そこを出ようとしても、行き場所もないのであれば、袋小路に陥ってしまいます。
捧げた時間、お金、労力がすべて無駄だったとは、認めたくもありません。
5. 実から判断しよう! 事実を観察しよう!!
偽預言者は実によって見分けよと、主イエスは言われました。(マタ7:16)
巧みに粉飾されていても、事実はちらほらと顔を出します。言葉に踊らされず、事実を観察しましょう。
愛の実践者が、そうも簡単に怒鳴り声を挙げるでしょうか?
弱い立場の人に、理不尽な仕打ちを向けるでしょうか。
正しい人に、どうしてそんなに隠し事があるのでしょうか。
公正な組織なら、なぜ金銭的なことが明らかにされないのでしょうか。
「○○先生に目をかけられた」とは、一体、誰が言っていることでしょうか?
「あんなにしてあげたのに」というのは、愛でしょうか? あなたに恩を着せて、重い負債を負わせ、縛り付けているだけではないでしょうか。
その指導者は、自分への批判に真摯に耳を傾けられる人でしょうか?
自分の非を認めて、謝罪できる人でしょうか?
本当の意味での謙遜、へりくだりを身につけた人でしょうか?
主イエスは弟子たちの足を洗われ、言われました。
「あなたがたも互いに足を洗いあいなさい」と。
自らを低くされ、見返りを一切求めない愛が、主イエスの十字架の愛だと、真実の愛だと、キリスト者なら知っているはずです。
【参考文献】
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