十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

母性的教会と霊的幼子クリスチャン 支配と依存

2022/09/12
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

1.子どものままの大人たち

現代人の病の一つは、「自分」だそうです。

自分の夢、自己実現、わたしらしくあること…。自分にばかり捕らわれて、結果、自分で病んでいる。

自分の感情、自分の感覚が一番で、思う通りにならなければ、相手が悪い。

選ばれた指導者までが、そんな傾向に染まっていれば、社会全体が病んでいます。

 

自分のことしか頭になく、自分を疑ったことがないという、幼児性の強い大人が増えていると聞きました。

幼児性の強い人の特徴は、他者に依存的で、被害者意識が強く、自己責任の意識に欠けていることです。

幼い子、そのまんまと言えば分かりやすいでしょう。

 

幼児期には、子どもは親に守られ、親がすべてやってくれます。

人がやってくれるのが当たり前、思うとおりに行かなければ悪いのは相手で、そうしろと言った周りのせい。

仕事や家庭のパートナーが、そんな幼稚な大人だったら、大変です。

 

なぜ、幼稚な大人ができあがるのか。

親の過保護は、大きな原因です。親の過干渉が、子どもの自立を妨げてしまったのです。

人は、自分の失敗や他者との摩擦によって、自分の思うとおりには行かないことを知ります。

自分とは違うタイプの人に出会うことで、自分を見つめ、知っていきます。

そうやって、快不快の自分の感情が第一だった子どもは、周囲に合わせることを知り、他者への配慮を身につけ、相手の立場で考えられる大人へと成長していくのです。

しかし、自分の殻に閉じこもったまま、体だけ大人になってしまったら?

幼稚な大人、大きな子どものできあがりです。

 

幼児性の強い人は、自分で決めるのが嫌いです。

決めたら責任を負わなければならないからです。

幼い人は、徹底して自分で決めること、責任を負うことを避けようとします。

たとえば、「キャンディが食べたい」というから、買って与えたのに、気に入らなかったとなると、「あなたがくれたんじゃないか」と言い出す始末です。

 

幼稚な大人は、成長することを自ら放棄しています。

いかに子どものままで、人にやってもらうか。

他者任せの楽ちん人生を続けるためには、成長なんて邪魔なだけです。

 

それでもお腹は減ります。

いかに人に持ってこさせるかが、幼稚な大人にとっての最大の関心事になります。

そこで、力のある人、特に、責任感や保護者意識の強い人にくっついて、巧みに相手をコントロールするのです。

“人にやってもらう” という術においては、妙に熟練しているのが、幼児性の高い大人の厄介なところです。

 

2.母性的教会と霊的幼子

無条件の愛と無制限の束縛をもたらす、人間的な母性が主となった母性的教会。

その指導者は、信者に幼児のような依存を求めます。

幼児性を持ったままのクリスチャンは、まさに霊的幼子です。

母性的教会と霊的幼子クリスチャンは、コインの両面になっています。

母性的教会の支配的指導者の背後には、それを支える多くの霊的幼子がいるとも言えるでしょう。

 

霊的幼子は、聖書解釈など、指導者に任せっきりです。

教会の方針、日々の奉仕、私生活に至るまで、指導者の指示を仰ぎます。

自分で決めたくない人には、絶好の環境です。

責任はすべて指導者が担ってくれるなら、こんなに楽なことはありません。

教会という天国行きの列車に乗って、運転は指導者まかせでいいのですから。

指導者は、「ありのままでいい」と、今の自分を全肯定してくれます。

何も変えなくていい、成長なんて不要です。

 

3.ありのままでいい?

「ありのままのあなたでいい」

世の中はもちろん、最近は教会でも、よく聞かされるフレーズです。

聖書は本当に、そんなことを言っているのでしょうか?

 

神のイスラエルの選びの理由は、「どの民よりも少数だった(申7:7)」からでした。

イスラエルの側に選ばれる理由はなく、神の一方的な恵みだったということです。

今の時代のクリスチャンも同様です。

神は、恵みによって選ばれた者を、ただ信仰のゆえに義としてくださいます。

 

では、恵みによって選ばれた私たちは、ありのままでいいのでしょうか?

すべての人は罪人です。

罪人の私たちを神はまず愛して、愛する御子を罪をあがなう犠牲とされました。

ありのまま、罪のままの私のために、主イエスは、十字架にかけられた。それは確かです。

 

しかし、ありのままの私とは、滅ぶべき罪人の私、罪を抱えたままの私なのです。

そのままでよいわけがありません。

ありのままの罪人が、よしとされるなら、キリストの十字架は全く無意味だったことになってしまいます。

 

4.私たちの成長を願われる主

主イエスは、たびたび、信者や教会を成長する作物にたとえられています。

すべてのクリスチャンに求められているのは、成長し、実を結ぶことです。

福音を信じた救われた者が、福音を伝え、教える者とされ、その働きを通して、新たに救われる者が起こされていく。

救われた者が、救いの業に用いられていく。それが今の教会時代です。

成長は必須なのです。

 

私たちは何によって成長させられるのでしょうか。「

「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。Ⅰペテロ2:2」とあります。

また、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。Ⅱペテ3:18」 とも記されています。

純粋な霊の乳、キリストの恵みと知識とは、御言葉です。

聖書全体を学び、そこに記された、神の約束を土台とする主のご計画の全貌を知っていくこと。

そうやって、クリスチャンは成長させられていくのです。

 

新約聖書で最も多い命令は、偽りの教えに対する警告です。

正しく聖書を学び、成熟したクリスチャンとして、キリストの体の組み上げる一部となっていくこと。

クリスチャン一人一人に求められています。

 

「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。
こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。エペソ4:13~15」

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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

Comment

  1. 和田哲也 より:

    15年、共に集い礼拝を守っていましたが、霊的な学び(聖書研究や信徒研修)を行ったことはありません。
    教会総会にて、提案したこともありましたが、「歳をとって億劫だ」「礼拝をきちんと守っているので、十分」とのこと。せめて、役員会でのデポーションを提言しましたが、あっさり却下されてしまいました。
    ちなみにわが教会役員は「デポーション」の意味を知らず、他教会との交流会で沈黙を余儀なくされた。
    現在は、霊的成長を渇望して他教会にて礼拝を守り、メールやWebにて御言葉の深みを体感しております。
    母教会からは「除籍勧告」を受けました。

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