Q:どうして日本に、キリスト教が定着しなかったのですか?
1. 聖書が読めないベテランクリスチャン?!
以前、ある年配の女性と聖書の学びをしていました。クリスチャンになって、もう何十年にもなる方でした。
1~2名しか参加者がいない中、彼女は、毎回、欠かさず出席されていました。熱心で成熟した信仰者なのだと思っていました。
ところが、ある時驚かされのは、彼女は、創世記のヨセフを知らない、ということでした。
アブラハムすら、名前は知っているけれど、それ以上の説明をすることはできないようでした。
改めて気づかされたことがありました。
彼女に感想や質問を求めると、毎回、これはどういう意味ですか、と逆に聞き返されていたことです。
どうも、牧師から、こういう意味だと説明されないと落ち着かないのだと分かりました。
自分の意思で、自発的に聖書を読むということができないのです。
聖書は、基本的にそのまま読んだらいいんですよ。と話しても、戸惑われるばかりでした。
教会に通うようになったきっかけとして彼女が繰り返し語っていたのは、あるクリスチャン家庭の、素敵なお嬢さんとの出会いでした。
振り返ると、彼女自身の個人的な主との出会いの体験を聞いたことはありませんでした。
どうして日本に、キリスト教が定着しないのか、いろいろなことが言われます。
ここでは、日本の教会の内的な状況から考えてみたいと思います。
2. ブラックボックスと化した聖書
何十年も教会に通いながら、ヨセフすら知らず、聖書を自分で読めない…。牧師の責任は大だと思います。
説教で取り上げるのは、福音書か、せいぜいパウロ書簡どまり。主観的な解釈や自分の主張ばかりで、聖句は添え物にすぎないというのでは、聖書が読めない、理解できないのは当然です。
私自身も、そのような教師の一人でした。
この牧師は、どういう根拠で、どんな課程を経て、この理解に至ったのか。
それが分からないなら、聞く側は受け身なだけで、自分で聖書を読む力など、一向に身につきようがありません。
重大なものだとは分かるけど、下手に手を出したら、何が飛び出すか分からない。聖書は、得体の知れないブラックボックスでしかないことでしょう。
3. 読めば分かるはずの聖書なのに
そもそも聖書が対象としているのは、イスラエルの市井の人々です。
聖書の内容は、基本的にとてもシンプルで、こどもにも十分に理解できるものです。
私自身、ノンクリスチャンホームの小学生低学年の子が、喜んで聖書を読む姿に驚かされた経験があります。
とにかく活字が苦手で、漫画も読まないのに、聖書は読める。そんな子もいます。本当に不思議なことです。
その聖書がどうして、理解不能な難しいものになってしまっているのか。
まず考えられる、何より大きな要因は、“個人的な主への信頼がないこと”です。
東大を首席で卒業しようと、どんなにIQが高かろうと、信仰のない人に、聖書の理解は困難です。
逆に、信仰があれば、こどもにだって、聖書を読んで理解することはできます。
信じた人の内には、聖霊が住んでおられ、聖書の理解を助けてくれるからです。
聖書が理解できない、もう一つの原因は、“聖書は読んで分かるものだと教えられていないこと”です。
確かに、聖書には難しい部分があります。私たちと聖書の本来の読者であるユダヤ人との間には、歴史的、文化的、地理的隔たりがあるからです。
でもそれは、適切な橋渡しさえできれば、解決できることです。
重大な問題は、神学者や教職者たちが、聖書の適切な橋渡しができなくなってしまったというところにあります。
なぜ、そうなってしまったのか。教会が歩んできた歴史的な背景が、大きく影響しています。
3~4世紀には、教会は異邦人の組織となってしまいました。
メシアニック・ジュー(ユダヤ人クリスチャン)は、教会から閉め出され、以降、聖書本来の文脈を無視した比喩的解釈が、神学の主流となりました。
聖書から神の意図を読み解くのではなく、解釈者に都合のよいことを聖書から汲み取ることがずっとなされてきたのです。
その流れは、19世紀に加速します。
進化論や共産主義、啓蒙思想など、人間中心の価値観が主流になり、聖書の権威は地に墜ちてしまったのです。
聖書をそのまま理解することは、旧時代的な愚行とみなされるようになりました。
そして、神学者たちは近現代の価値観に合わせて、聖書を読み替えることを始めたのです。
あらゆる奇跡は否定され、聖書の記述のすべてが、徹底して比喩的、象徴的に理解されるようになりました。
それが“自由主義神学(リベラル神学)”と呼ばれる立場です。
世界について、聖書と進化論の説明は全く異なります。
それに無理矢理、整合性を持たせようとすれば、非常に込み入った解釈にならざるを得ません。
聖書解釈は、そういう抽象的な議論に長けた、一部の学者や教師たちだけのものになっていってしまったのです
4. 人間的歴史の必然を超えて
開国後の日本で最初に伝道した宣教師たちは、素朴に聖書を教えました。
しかし、間もなくして、日本に、自由主義神学が入ってきたのです。
日本のプロテスタント発祥の地の一つが熊本です。“熊本バンド”と呼ばれます。
その最初期のメンバーの一人、海老名弾正氏は、自由主義神学を日本で最初に紹介し、広めました。
海老名氏は、この北海道の十勝にまで来て、集会を開催していたそうです。
十勝の地元の4代目クリスチャンという方から、初代である彼の曾祖父が、海老名氏の集会に熱心に通っていたことを聞きました。
日本のキリスト教が、黎明期からすでに、自由主義神学の影響を色濃く受けていたことが分かります。
自由主義神学特有の、難解で抽象的な解釈に、民衆がついていける訳がありません。
日本のキリスト教が、知的エリート中心で、広がりを持たなかったとはよく言われることですが、当然の結果だと思わされます。
自由主義神学に陥った教会では、人々の信仰は間違いなく形骸化します。
信頼して聖書を読むことなく、神への信仰が深まる訳がありません。
聖書が理解できないでいて、神との個人的関係を築くことなどできません。
難解極まりない聖書の比喩的解釈は、信徒に対して、教師の権威への依存を強めさせます。
それではまるで、聖書解釈権を聖職者が独占していた中世に逆戻りです。
結果、日本の教会の多くはサロンと化し、集う人々の妙なエリート意識を満足させるだけのものとなっていきました。
代々のクリスチャンで地元の名士の一族が、教会を牛耳っている…。伝統的な日本の地域教会でよく見られる姿です。
なぜ、日本でキリスト教が広がらないのか。
当然の結果だと言えます。
聖書を信頼して福音を告げることをしないのなら、人は救われようがありません。
「日本の霊的覚醒は聖書研究から」。聖書フォーラムが掲げるスローガンに、まさにそれしかないと改めて思います。
聖書は、あなたへの、神様からの贈り物です。
で、どうしたら、日本にキリスト教は広がるの?
広がるかどうかは、神のご計画次第です。私には答えられません。
結果は主にゆだねるほかありませんが、何をすべきか。ということは明らかです。
福音を告げること。
すなわち、主イエス・キリストは、あなたの罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、復活されたのだと。
福音を聞いたその人が、個人的に主イエスへの信頼に、つまり信仰に至るかどうかは、その人が決めることです。
なにより、主ご自身が導かれ、促されることです。
福音を告げ、聖書を正しくまっすぐ解き明かす。そこからしか、何も始まってはいきません。
自分自身を振り返ると、ながらく、スタートラインにも立っていなかったのだと痛感させられます。
ようやく、信仰者の道を歩き始めたばかりですが、本当にこれだけしかないのだと、日々、身に刻まれています。
日本において、教会がどうなっていくのか。わかりません。
一つだけ言えるのは、世の終わりの大患難時代のただなかには、日本も含めて、世界中でかつてない規模の霊的覚醒が起きるということ。
最終的に、救われるべきすべての魂を、主は、御国に招き入れてくださいます。
告げた福音、解き明かしたみ言葉が、無駄になることは一つもない。
主を信頼して遣わされていく、それだけです。