聖書から問われ直す人間観 ミカルを通して気づかされたこと サムエル記第二6章他
目次
1. ミカルは可哀想な被害者?
神の箱の前で踊ったダビデを侮辱し、生涯子がなかったミカル。父サウルによりダビデと離縁され、他の男に嫁がされた過去もあり、不幸な女性というイメージがありました。
しかし、改めて聖書を読み返す中で、ミカルの人格について根本的な訂正を促されました。
さらに考えさせられたのは、現代人の人間観と聖書の人間観との間にある大きなギャップです。
重大な問題を起こした人に接したとき、私たちは、「この人は、過去にどんな重い傷を抱えているのだろう」と考えがちです。
私自身もそうでしたが、このような思考法がくせになっている人は少なくないと思います。
しかし、その人の過去や置かれた環境に原因を求める、このような人間観が主流になったのは、ぜいぜいこの数十年のことに過ぎません。
では、聖書は、どのような人間観に立っているのか。
聖書の記述を元に、ミカルの人格に迫りながら、聖書的人間観について考えたいと思います。
2. ダビデとの結婚と離縁 サムエル記第一18~19章
ゴリアテを倒し、華々しいデビューを飾ったダビデは、戦功を重ね、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」とまで称えられるようになりました。
このダビデを娘ミカルが愛しているとサウル王は知りました。そしてサウルは、ペリシテ人の局部の皮百枚と引き換えにミカルを妻に与えるとダビデに持ちかけます。
これは、死に追いやるためのサウルの罠でしたが、ダビデは出された条件の倍の二百人のペリシテ人を討って、ミカルを妻としたのでした。
この後も、憎悪を募らせたサウルは、ダビデ殺害を公然と口にするようになります。
ある時には、自らの槍でダビデを殺そうとしました。
サウルの槍を間一髪逃れて自宅に戻った夫ダビデに、妻ミカルは、今夜逃げなければ命はないと言い、窓から下ろし逃がしました。
その後、ミカルはダビデの寝床にテラフィムという偶像を置き、ヤギの毛織や衣服まで使って偽装した上で、ダビデは病で伏せっていると嘘を言いました。
偽装は、サウルの刺客にあっさりばれてしまうわけですが、ミカルは、サウルの前で、あろうことか、殺すと脅されてダビデを逃がしたと口にしています。
この後、サウルは他の男にミカルを嫁がせました。
これまで、私は、ミカルが可哀想だと同情していましたが、よく考えれば、殺すぞと娘を脅した男と離縁させるのは、父親としては当然のことのように思えます。
ミカルの動機はどこにあったのか。
ミカルは、イスラエルの英雄だからこそ、ダビデを愛していたに過ぎなかったのではないでしょうか。
王に命を狙われ、地位と特権を失い、逃亡者となった夫にもはや価値はありません。
それどころか、もしダビデが殺されるようなことがあれば、ミカル自身に「反逆者のやもめ」という最悪の烙印が押されてしまいます。
ミカルは、今死んでもらっては困るとダビデを逃がし、ダビデと離縁するために、殺すと脅されたと嘘をついた。
そう考えると、この後の彼女の行動とも辻褄が合います。
3. 泣いて追いかけて来た夫 サムエル記第二3章
聖書には、さらに不可思議なエピソードが記されています。
サウルの死後、ユダの王となったダビデに、イスラエルの将軍アブネルが和解を持ちかけました。
この時、ダビデが掲げた条件は、サウルによって一方的に離縁された妻ミカルを自分の元へ返すようにということでした。
ダビデからすれば、正当な要求です。
当時の価値観からすれば、サウルの娘ミカルを妻にすることは、ダビデの王としての正統性を示すものでもありました。
イスラエル王イシュ・ボシェテは、ダビデの要求を飲み、ミカルを彼女の夫となっていたパルティエルから別れさせます。
この時、パルティエルは泣きながらミカルの後を追い続け、最後はアブネルに追い返されています。
王の娘という立場を最大限に利用し、ミカルは夫パルティエルを完全に精神的に支配していた。
それが、夫が泣きながら追いすがってきた特異な状況に現れているのではないでしょうか。
別れさせられて泣いていたのは、妻ミカルではなく、夫パルティエルだったと聖書は、そこを強調しているのです。
逆にミカルは、イスラエルの王の妻となれることを喜んでいたのではないでしょうか?
いくつかのエピソードから浮かび上がってくるのは、極めて計算高く、他者に対して支配的なミカルの本性です。
これらの出来事は、ミカルの性質を表す伏線として記されていると考えられます。、最終的には、ミカルが、イスラエルと王と神を侮辱したあの出来事につながっていくということです。
4. ダビデへの侮辱の意味 サムエル記第二6章
聖書に無駄な記述は何一つありません。ミカルにまつわる記述は、どれも意味があり、そこにこめられた警告、メッセージがあるととるべきです。
そして、ミカルに関する一連の記事の最後が、神の箱の前で踊ったダビデへの侮辱です。
「女奴隷の前で裸で踊った」とミカルは言いましたが、事実は、ダビデは祭司の装束であるエポデを着ており、そこに集っていたのはイスラエルの民です。
ミカルは、ダビデが王の装束を脱いで、一般の祭司の服を着たことを、「裸」だと強調しているのです。
さらには、集っていたイスラエルの女たちを、「女奴隷」と言って貶めています。どちらも、ひどい侮蔑の表現です。
このように実際には、ダビデは祭司のエポデを着ていました。しかし、それを、ダビデが裸で踊ったと思い込んでいるの人は少なくありません。
私もそうでしたが、ミカルの侮蔑の言葉にすっかり惑わされていたわけです。恐ろしいことだと思います。
同時に、聖書の読み込みの浅さを突きつけられました。
侮辱するという行為は、相手に自分の方が上だと思い知らせるための強烈なアピールです。
ミカルは、自分が、イスラエルの王となったダビデの上に立とうとしているのです。
聖書に書かれた悪女というと後の北王国の王女イゼベルが有名です。イゼベルは、国全体を偶像礼拝で犯し、夫をも精神的に支配し、実権を握り、欲しいままに振る舞っていました。
もしミカルが実権を握っていたなら、イゼベルのような存在になっていたのではないでしょうか。
これ以上ない侮蔑を、神が油注がれた王と、神の民イスラエルに対して浴びせたミカル。それは、究極的には神ご自身に対する侮蔑に他なりません。
律法は、神に対する冒瀆に対しては、死罪を定めています。
ミカルは、命を取られても仕方がないほどの罪をこの時犯したのです。
ダビデが毅然として答えたのは、全権者の主の前で喜び躍るのは当然だということ。主を讃えたことで、王である自分がイスラエルの民と共に貶められるなら本望だということでした。
この後、ダビデはミカルと床を共にすることはなく、彼女は生涯子どもを得ることはありませんでした。
当然の結果であり、あれほどの不敬を働きながら生かされたのは、むしろダビデの恩情の表れだと言えるでしょう。
5. 聖書的人間観に立って考えよう
何か重大な問題を起こした人は、過去に重い傷やトラウマを抱えている。私たちにとって当然になっているこの人間観は、フロイトやユングから始まった現代の人間観に過ぎません。
たかだか100年の歴史しかなく、社会的に主流になってきたのは、この数十年のことです。
もちろん、このアプローチが有益な人もいます。だからこそ精神医療の現場で採用され広がってきたわけです。
しかし、すべての人に当てはめようとすれば無理があります。むしろ、このようなアプローチが、有害に働いてしまう場合もあります。
強すぎる支配欲や、攻撃性の高さが問題の原因となっている人々がいるのです。
自分という存在が絶対で、自分が益を得るためならば、平気で嘘をつき、利用できるものは何でも利用し、他者をコントロールする。
挑戦を受ければ、むしろ闘志を沸き立たせ、徹底抗戦する。そのような人々に出会わされたことが、私の人間観を問われ直す大きなきっかけとなりました。
その一人は、カルト化した教会の指導者でした。
その指導者は、自分の罪をごまかすために、時に弱さを隠れ蓑にしていました。
何か問題を指摘されたときに、私は過去にこんな傷を抱えているんだと主張すれば、責任追及の手もゆるむのですから、こんなに都合のいいことはありません。
聖書的人間観に立てば、人が罪を犯すのは罪人だからです。
誰もが自制しがたい欲望をどこかに抱えています。支配的な人は、支配欲を満たすことに喜びを感じるのです。
物欲に弱い人が、衝動買いで欲求を満たされるように、支配欲の強い人は、他者を思いのままに振り回せたら、欲望が満たされて、つかの間、すっきりするのです。
創世記からずっと聖書を読み進めてきて、否応なく突きつけられるのは、いかに人間が罪深いかという現実です。
私自身、罪に対する自覚がいかに甘かったかと痛感させられていますが、この罪の認識の甘さこそまさに、人の罪の性質なのだと思い知らされています。