十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

聖書が分からない最大の理由 失われたイスラエル論

2022/02/12
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

1. ヘブル的視点で読むということ

聖書フォーラムでは、「ヘブル的視点」から聖書を読むことを大切にしています。

言葉だけが一人歩きしがちですが、「へブル的視点」というのは、著者の意図通りに読もうという極めて当たり前のことです。

「字義通り」に読むと言うのも同じことです。

聖書に歴史的事実として記されたことは事実、詩の表現など比喩として記されたことは比喩として読む。それが、「字義通り」ということです。

「文字通り」と言わないのは、例えば、「ほっぺたが落ちる」とか「目が飛び出る」なんて言葉を、「文字通り」にとったら文脈から外れてしまうことがあるからです。

「字義通り」という言葉、聞き慣れないものだと思いますが、ようするに、私たちが普段、文章を読むときに自然に行っていることです。

他の本を読むのと同じように、いたって普通に聖書を読もうということにすぎません。

ただし、現代の日本に生きる私たちと、聖書の時代、文化、風土とは大きな隔たりがありますから、そこは、しっかりと埋めていく必要があるわけです。

 

このように、ヘブル的視点で読むということは、何一つ特別なことではありません。

しかし、当たり前のことが、何か特別な主張のように捕らえられてしまうなら、その状況そのものに、別の深刻な問題があるのではないでしょうか。

 

2. 失われた最大の文脈

聖書フォーラムで大切にしているのが、文脈に従った聖書理解です。

聖書全体の文脈、書簡の文脈、文章の前後の文脈に沿って読む。これも当然です。

学生の頃、現代文の授業で、接続詞に注意しなさい、と、先生が繰り返されていたのを思い出します。

どういう流れで、その文章につながっているか、接続詞が示している。つまり、文脈を無視したら、文章は理解できないと言われたわけです。

文章は、文脈に沿って読む。

しかし、この当たり前のことが、聖書の読解に関しては、当たり前になされていない現実があるわけです。

 

教会の牧師の権威について、異議を唱えられたり、議論をする機会を度々与えられています。

信徒が、所属教会の牧師の許可も得ないで他の教会の牧師から聖書を学べる環境を作り出している。という聖書フォーラムへの批判があります。

私の実感では、感情的な反発に終始してしまっているように捉えています。

引き合いに出される聖句もいくつかありましたが、文脈を無視した引用ばかりでした。

聖書を根拠とした納得のいく説明には、未だに出会えないままです。

結局、聖書に基づかない、人間が作り出した文化、伝統に囚われているだけではないかと思えて仕方がありません。

 

なぜ少なくない教会がこのような状況に陥ってしまっているのか?

考えつつ気づかされたのは、重大な文脈が失われていることが、最大の原因ではないかということです。

多くの教会から失われてしまっている聖書の重大な文脈。それがイスラエルです。

 

3. 置換神学がもたらしたもの

ヘブル的視点から聖書を読むときに外せないのが、イスラエルはイスラエル、教会は教会と明確に区別して読むということです。

これも、聖書の文脈からすれば、当然のことです。

しかし、教会の歴史においては長らく、イスラエルを教会と読み替えることが定着してきました。

イスラエルは、メシアを拒否したために見捨てられ、教会が新たなイスラエル、神の民となったのだという理解です。

イスラエルは教会に置き換えられたのだ、これをヘブル的視点からは、置換神学と呼びます。

(※「置換神学」は、あくまでへブル的視点の立場からの一方的な呼称です。「あなたは置換神学です」と言っても意味が通じない場合がありますので、ご注意ください。「自由主義神学(リベラル)」も同様に、福音派からの呼称です。以前の私も、自分が「自由主義神学(リベラル)」なんて意識はありませんでした。)

 

置換神学の誤りは聖書に明らかです。

イスラエルは見捨てられたのかという問いに、使徒パウロはローマ人への手紙11章で、明確に、「決してそうではない」と告げ、簡潔に理由を記しています。

メシアを公式に拒んだイスラエルは折り取られて、異邦人信者が接ぎ木された。しかし、イスラエルは再び回復される時が来る。

「イスラエルはみな救われる(ローマ11:28)」のです。

新約聖書においても、イスラエルという言葉は一貫して、イスラエルという地名、民族を指して用いられています。

 

しかし、置換神学は、文脈を無視した比喩的解釈を主流にしてしまいました。

つまり、聖書をいくらでも解釈者の好き勝手に読めるようになってしまったということです。

例えば、聖書預言で、イスラエルへの厳しい裁きが告げられていれば、これはユダヤ人のことであり、祝福が記されていれば教会であると言う具合です。

 

置換神学がもたらした最悪の結果が、「キリスト殺しのユダヤ人」への憎悪、差別、迫害であり、それが極まったのが、ナチス・ドイツによるホロコーストに他なりませんでした。

プロテスタント発祥の地であるドイツですが、宗教改革においても、置換神学は正されないままでした。

ルターが苛烈なユダヤ人への差別意識を持っていたことは知らされていますが、当時は、それが当然だったのです。

 

4. イスラエルあってこその終末論

聖書預言の大きなテーマが、イスラエルの背教と回復です。

つまり、“神に背いたイスラエルは厳しい裁きを受け、約束の地を追われるが、悔い改めて再び集められ、繁栄する”ということです。

バビロン捕囚と神殿再建は、歴史的事実として起こりましたが、それは、来たるべき世の終わりの影にすぎません。

聖書は繰り返し、イスラエルへの最終的裁きと民族的回心、完全な回復、永遠の王国について告げています。

 

ヘブル人への手紙6章にあるように、使徒時代には、終末論は、初歩の教えに過ぎませんでした。

しかし、イスラエルという文脈を失っては、終末論は理解不能です。

置換神学に陥った教会では、終末論もあやふやなものとなりました。

「神学論議」という言葉は、訳の分からない議論を指して使われます。

そう言われて仕方のない側面が多分にあると、自分自身の神学校時代を振り返って思います。

比喩的解釈は、本来の文脈を外れて、別な意図を読み込もうというアクロバティックなことをしているわけですから、極めて抽象的な、分かりづらい内容になるのは、致し方ないことでしょう。

まれに、比喩的解釈が、難解なパズルを解くように、ぴたりとはまったメッセージというのもありますが、極めて限定的です。

神学校で学んだ内容は、あまりに複雑で、難解で、一般の人々向けのメッセージには、なかなか適用しがたい、というのが、多くの牧師が直面している問題ではないかと思います。

 

聖書フォーラムへのよくある批判で、特定の終末論を正しいと断定して教えるな、と言われます。

正しいと主張するなとは理解し難い反論ですが、ここから浮かび上がるのは、置換神学では、人々に分かりやすく明確に終末論を語ることは困難であるという事実です。

(※もちろん、将来のことについては、起こってしまうまで、誰も正しいとは断定できません。それは、私自身繰り返し述べています。学びを深めるほどに、ヘブル的視点に立つ終末論こそ、聖書の基本的な教理とも整合性がとれており、正しいものであるという確信を深めさせられているということです。)

 

5. ヘブル的に聖書を学ぶことの恵み

ヘブル的視点での学びを発信するサイトが多くの人の支持を集めている最大の理由。

それは、聖書が分かる、というこの一言に尽きます。

 

さらに、私が、ヘブル的視点から学びを重ねるほどに、確信を強められている理由の一つは、基本的教理から一歩も踏み出さないということです。

信仰と恵みによる救い、救いの永遠性、三位一体の神の性質など、使徒信条にある内容を強められこそすれ、逆はありません。

学ぶほどに無駄なものがそぎ落とされ、信仰がシンプルにされていく。

この清々しさは、多くの人が味わい知らされていることだと思います。

 

私が、神学校時代、学べば学ぶほど、混乱が増していったのとは対象的です。

みんな言うことが違うのだから、結局、自分の信じることを信じるしかない、というのが、当時の私の結論でした。

以前所属していた教団のとある教区は、社会派と呼ばれるほどに、非常にリベラル色が強い地域でしたけれども、年間目標に聖句がまったく記されていませんでした。

聖句をのせるべきだ、という意見も少数ながら、度々あがるのですが、議題にすらなりませんでした。

当時の議長に理由をたずねたことがありますが、「聖句をのせるとケンカになるから」というのが答えでした。

笑えない現実があります。

 

ヘブル的視点からの終末論の立場について、千年王国前再臨説、大患難前携挙説と説明されます。

千年王国前再臨説とは、主イエスが再臨された後に、神の国・千年王国は設立されるという説です。

大患難前携挙説は、教会の携挙よって信者が天に挙げられた後に、裁きの大患難時代がやってくるという説です。

この終末論に立つことで、今の時代のクリスチャンの使命が明確にされます。

つまり、世界の回復は、再臨のメシアによるのであり、信者の使命は、福音を告げること、ただそれだけだということです。

 

ヘブル的視点で聖書を学ぶ恵みは、このように大きく三つ挙げられます。

1. まずなにより、聖書が分かる、ということ。

2. さらに、学べば学ぶほど、信仰がシンプルにされていくということ。

3. そして、何が起ころうと起こるまいと、主を信頼するだけだという平安が与えられるということです。

 

6. 歴史的な変革の時代に

今、キリスト教界から久しく喪失していたイスラエル論と終末論が回復されつつあります。

大きな役割を果たしているのが、メシアニック・ジューの神学者たち。すなわち、ユダヤ人としての宗教的文化的な背景を持ったクリスチャンの存在です。

彼らを通して、本来的な聖書の読み方に立ち返らされる人々が、世界のあちこちに起こされています。

 

そして、ヘブル的視点から分かりやすく当たり前に聖書を学べる環境が、ネットによって整備されています。

誰もが自由に、いくらでも、すぐれたメッセージに触れることができるようになっています。

かつての宗教改革に匹敵するか、あるいはそれ以上の変化に、キリスト教界は今、直面させられているのかもしれません。

既存の組織的教会で、御言葉の学びへの餓えを満たせない人々が、独自に学び、集う。

それは、世界的な潮流となりつつあるようです。

日本では、ハーベストタイムミニストリーズが一つの先鞭をつけ、聖書フォーラムが大きな働きを担っているわけですが、たとえ、それらのグループがなくとも、この動きは広がったことでしょうし、この広がりを妨げることは、誰にもできないでしょう。

 

私は、一人の牧師として、今、何をなすべきか。これも聖書から明確です。

福音を告げ、聖書を聖書が求める通り、文脈に沿って当たり前に解き明かして行くこと。

その限りにおいて、日々のすべての必要も満たされていく。これもまた、主が約束された通りです。

 

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