聖書フォーラムへの批判の本質を考える
目次
1. 拡散され続けている、とある記事
「聖書フォーラムの内部告発があった」と、一人の牧師が、とあるブログ記事を取り上げたことがありました。
おもに牧師から牧師へという形で、その後も拡散しているようです。
ハーベストタイムミニストリーズの主催する聖書塾を中途まで学んだというAさんが、聖書塾での学びによって教会生活も家庭も壊れたと訴えているブログでした。
聖書知識を得て、他者に傲慢になることのないようにとは、聖書塾で中川師が繰り返し教えられていることです。
しかし、Aさんは、所属教会の牧師や周囲を猛批判し、地域教会と家族に深い分断をもたらしてしまったのです。
Aさんは、聖書塾を教える中川牧師の責任に転嫁し、聖書塾のせいでひどい目にあったと強調していました。
このブログを引用した牧師たちが問題としたのは、「聖書知識を与えることで信徒を傲慢な批判者に仕立て上げている」というようなことであろうかと思います。
そもそも、「信徒が所属教会の牧師の許可も得ずに学べるシステム自体がおかしい」という批判もよく耳にします。
これらの批判については、私も反論の記事を書いていますので、興味のある方はご欄ください。
「ハーベストタイムが分裂をもたらす?」
「聖書フォーラムへのよくある批判から あるべき教会形成について考える」
これらの記事の閲覧数も地道に伸び続けているので、前述の批判のブログと合わせて読んで検証している方も多いのだろうと思います。
この記事では、なぜそういった批判が起こるのか、ということを、今という時代を背景に考えたいと思います。
従来から、教会組織に入り込んでいた、支配的な人々の存在。そして、既存の教会組織の中での、牧師という立場、ありように、大きな変容が迫られていることが、背景にあるのではないか、ということです。
2. 聖書知識を支配の道具にする人々
ごく少数だと認識していますが、ハーベストタイムや聖書フォーラムと、直接的なつながりをもたない人々の中に、聖書塾やメッセージステーションで得た知識によって、他者を批判し、支配的にふるまう人がいるようです。
私も、そんな人々にネット上でからまれたことがあります。
その人々は、特に、牧師という存在を目の敵にしているようで、辛辣に地域教会や牧師を非難し、こき下ろして溜飲を下げているように見受けられました。
匿名性を隠れ蓑にする一方で、聖書塾や中川師、フルクテンバウム師の名前など、利用できる権威は利用する。確信犯的で非常に悪質だと感じました。
彼らは、SNSの仲間内で他者(この場合は私)を批判して盛り上がっていました。
直接の批判なら応えようもありますが、間接的というのが厄介でした。
まさに、いじめの構造そのもので、そんな人々のターゲットにされて、カルトのような印象を聖書フォーラムやハーベストタイムに対しても持った人がいるのでは、と危惧しています。
3. 教会における支配的な人々の存在
この世の中には、権威をふりかざして、他者に支配的にふるまう人がいます。
そこから様々なハラスメントが起こされています。
ハラスメントが多い場所として度々指摘されるのが、医学界、教育界、政界、そして宗教界です。
これらに共通しているのは、指導者に権威が集中しやすい構造があるということです。
権威が人を狂わせるという側面があるわけですが、一方で、尊敬される先生もたくさんいます。
親という存在も子どもに対しては絶対的な権威を持っているわけですが、子どもを虐待する親は少数です。
“元々支配的な指向性の強い人が、他者に権威的にふるまうために、先生と呼ばれる職に就こうとする。”
一つの側面として、そういう傾向もあるのではないでしょうか。
とはいっても、当人には、自分が支配的だなどという自覚は、まずないでしょう。
支配欲という、己の欲望を自然と追求していった結果、権威的な立場を手にしたということです。
とても認められないことですが、ハラスメントを犯す教会指導者が現実にいます。
また、カルトや、カルト的な教会には、必ず、支配的な指導者がいます。
私自身も何度か直面させられました。
当人の言動を辿っていくと、以前から問題を起こしていたり、何かの兆候があったことが浮き上がってきます。
他者への支配力を得るために牧師を目指す人もいるということは、指導者育成の過程で必要な視点だと思います。
では、どうしたらよいのか。答えはやはり、聖書にあります。
聖書的な教会形成にこだわることで、支配的な人は、自ずと共同体から離れていく、そのことを実感させられています。
3. 自立と共生の原則に立って
聖書フォーラムの起こりは、ハーベストタイムミニストリーズが主催する聖書塾で学んだ人々が、自発的に集って学び、礼拝を始めたことでした。
やがて、一つの地域教会に成長し、各地に、同様の群れが起こされていきました。
聖書フォーラムは、宣教団体であるハーベストタイムミニストリーズとは別個の、独立した地域教会です。
宣教団体とは、地域教会を側面から支援する存在です。同様の関係が、聖書フォーラムとハーベストタイムミニストリーズの間にはあります。
聖書フォーラムの重要な理念が、「自立(自律)と共生」です。
何より求められるのは、一人一人が確かな聖書知識に基づく信仰に立ち、直接、神と結びつくことです。
それぞれのリーダーの個性、フォーラムの特徴は、本当にそれぞれユニークです。
各地域にある聖書フォーラムは、精神的、経済的に各々自立した上で、ゆるやかにつながりあっています。
聖書フォーラムで支配的な人がリーダーとなっても、力をふるい続けるのは組織的に困難です。
カルト的な「依存と支配」の関係は、「自立と共生」の聖書フォーラムとは水と油で相容れません。
信者に考えさせず、絶対的な従属を強いるのがカルト的リーダーですが、聖書フォーラムは、一人一人が、しっかりとした聖書知識を身につけ、聖書から自分で判断できる力を養うことを目指しています。
リーダーが支配的にふるまったり、教理的におかしなことを言い出せば、そこに集っている人、つながっている人々が黙っていないわけです。
私は、ネット上でメッセージ配信を行っています。それを聞いている方々からのチェックを常に受けているとも言えます。
このリーダーは権威を濫用している、教理的に危ういということになれば、たちまち多くの人は離れていくでしょう。
そうやって、各々の聖書フォーラムは、地域教会としての健全さを保たれていると思います。
「支配と依存」という関係性にどっぷり浸かった人が、中川師や聖書フォーラムのリーダーに入れ込んで、持ち上げ、その言葉を絶対化して用いて他者に支配的にふるまってしまう。
そのようなことは、常に起こりえます。警鐘をならす必要を、私自身も痛感しています。
どんな地域教会も、小さな集会や家の教会であっても、常に問題にさらされており、現在進行形の課題を抱えています。
それは聖書フォーラムも同様です。様々な課題はありつつも、自浄能力を発揮して、今のところ、よく歩んでいると考えています。
支配的な体質から抜け出せず、問題を引き起こした人々もいましたが、そのような人々は、自立と共生の聖書フォーラムにはなじめず、おのずと離れていきました。私自身、見聞きしています。
そのような人々の言動や背景をたどると、聖書フォーラムに連なる以前から、支配的な傾向を強く持っていたことが浮かび上がってきます。
離れていった人々の中に、カルト的なグループを形成している人がいるかもしれません。気になるところです。
教理的逸脱、権威の濫用は、どこの教団教派でも、地域教会でも、小さな家の教会であっても、起こり得ることです。
一人一人が、聖書から、自分自身で正しい答えを見いだし、現実に適用していくことができるように。着実に、その力を養っていけるように、とことん聖書にこだわって、聖書から解き明かして行くこと。
結局のところ、なすべきことはそれだけなのだと、ますます強く実感させられています。
4. ネット時代に変容する地域教会のありよう
ユダヤ人でありながら、イエスをメシア(キリスト)と信じる、“メシアニック・ジュー”が、増えています。
これはおどろくべきことです。
なぜなら、長らくキリスト教会が、誤った聖書理解から、「キリスト殺し」としてユダヤ人を迫害してきた歴史があるからです。
そのため、ユダヤ人の世界では、キリスト教、特に、新約聖書はタブーとなってきました。
しかし、このネット時代に、所蔵する会堂のラビを飛び越えて、イエスこそ、イスラエルのメシアであるという聖書からの論証を聞いて、信じるユダヤ人が起こされてきているのです。
イスラム教では、イスラム国(IS)に代表されるイスラム原理主義者が台頭し、世界各地でテロが起こされています。
その特徴は、草の根的なネットワークにあります。
イスラム国(IS)に共鳴してテロを起こした人々は、ネット上でコーランを読み、学び、これが本来のあるべきイスラム教徒のありようだと理解し、信じて、ことに至っているわけです。(※参考 「イスラム2.0 飯山陽」)
従来の宗教組織の枠組みでは、所属するグループ、団体の教職者、指導者を通さなければならなかったのが、それを飛び越えて、誰もが自由に聖典や教理を学べるようになった。
それはキリスト教世界も例外ではありません。
ネットが教会のありようを変え、コロナ禍がそれを加速させています。
ネット上で、いくらでも好きなメッセージを聞くことができます。ライブ配信での礼拝も多種多様です。
この自由さを味わった信徒を、従来の枠組みに閉じ込めておくことなどできません。
この流れにいち早く乗ったところが、キリスト教世界の中で大きな影響力を持ってきているようです。
日本においては、その一つが、ハーベストタイムミニストリーズや聖書フォーラムであるということに過ぎません。
時代の大きな変化が背景にあるなら、たとえ聖書フォーラムがなくなったとしても、個々の地域教会や牧師の置かれた状況は変わりません。
5. 変化を恐れず、変わらない土台の上に堅く立とう
私が置かれた鹿追教会(十勝聖書フォーラム)は、キリスト教世界で見れば、まぎれもなく辺境の小さな教会に過ぎません。
しかし、ライブ配信によって、この僻地の小さな教会の礼拝に、日本中、海外からも参加があるようになりました。
ネット会議を利用した分かち合いでは、互いの信仰を育みあう、貴重な機会を与えられています。
ネット上に、一つの地域教会が誕生していることを自覚させられています。
このようなことが、様々なところで同時発生的に起こってきているようです。
では、従来の地域教会は不要になるかというと、決してそんなことはありません。
すべての信者は、顔と顔を合わせた関係性を必要としています。
神が、イスラエルという一つの民族を起こされました。
キリストの体なる教会は、最初から一つの共同体として立てられました。
聖書の求める信仰は、共同体の存在を前提としています。
私が中川師のメッセージを始めて聞いた時には、こんな優れたメッセージを誰もが気軽に聞けるという事実にに、牧師は失業だ、とおののきました。
でも、いまだに牧師として用いられています。
私は、地方の町の本当に小さな教会で牧会してきただけの者であり、滑舌悪く、人前で話すことは苦手です。
それでも、聖書の真理に出会ったときに、これを伝えずにはいられませんでした。
少しでも分かりやすく、聖書の真理を伝えたい。一人でも多くの人に御言葉を届けたい。
悪戦苦闘してきた、その結果として、今がある。憐れみの内に、主が用いてくださいました。
私の息子はダウン症で、重度の知的障害があります。
しかし、聖書は大好きで、暇さえあれば、聖書の御言葉を書きまくっています。
大きな紙に筆でしたためるようになり、何度か個展を開き、常設のギャラリーの開設することになりました。
鹿追教会に集う子どもたちのほとんどは、何らかの発達障害を抱えています。
それでも、みんな聖書が大好きで、喜んで集い、学び、交わっています。
コロナ禍に始めたライブ配信は、毎回ハプニング満載ですが、楽しみにしてくださる方もいて、救われる人まで起こされました。
何ができるとか、できないとか。何が得意とか苦手とか。言い訳の余地などまったくないと思い知らされます。
ようは、聖書の御言葉にいかに親しみ、主と兄弟姉妹と交わりを喜び、福音を伝えようとしているか。
そこにネットがあったから、活用したということに過ぎません。
福音宣教のために、ローマ帝国のインフラを最大限に活用した、使徒たちの姿が模範です。
どこの誰であろうとも、どんな環境だろうとも、聖書を解き明かし、福音を述べ伝える。
その使命に歩むなら、必ず道は開かれるのだ、主が用いてくださるのだと、身をもって味わわされています。
すべてのクリスチャンは、福音を信じてあがなわれたこの身を、主にささげることを求められています。
置かれた場所で、ただ主に信頼して、福音宣教という与えられた使命に励めばいい。
あとは、主ご自身が必要を満たして、用いてくださる。
献身とは、ただ、それだけのことなのだと突きつけられます。
聖書フォーラムの強みは、聖書を神の言葉として信頼し、徹底して聖書に従い学ぶ、その点にあると思います。
決して変えてはならない本質と、個々に判断が任せられている事柄の区別をつけることができるなら、状況に応じた柔軟性が生まれます。変えるべきは大胆に変えることができます。
ネット上での活発な活動は、その一つの結果です。
聖書的世界観、歴史感に断つことが求められています。
混沌を極める時代において、神の計画された将来の出来事について確かな理解を持っているか。
聖書全体を一つのまとまりで捉えているか。本物だけが、真の信仰者を引きつけます。
この地上生涯で、どこまでたどり着けるか分かりませんが、真理に近づき続けたい、と、聖書ととっくみあう日々です。
私たちが従うべきは、主だけです。
どんなに名のある牧師だろうと大きな教会組織であろうと、それが人の意見に過ぎないなら、気にする必要はありません。
聖書に照らし合わせ、ただ主にだけ、誠実を貫けばいい。
信仰者に求められている姿勢は、使徒たちの時代からこの方、まったく変わっていません。
Comment
三浦先生
いつもメッセージをありがとうございます。
私は昨年、大好きだった地域教会を円満に脱会しました。
その教会で教えていることは、御言葉そのものではなく、牧師が御言葉をどう解釈しているかであり、聖書を使って牧師の哲学を学んでいるだけ、言い換えれば、牧師が教祖になっていたのだと気づけたのは、ハーベストタイムのメッセージを聴いていたおかげです。
地域教会の信徒たちとは、とても仲良くしていたので、教会を去る時はとても悲しく、勇気が入りましたが、今では誤った聖書観から解放されて、とても自由になり、棘が抜けたかのような、生き返ったかのような感覚です。
ハーベストタイムのメッセージを聴いてはいけないという教会もあるようですが、私は一人でも多くの人が、中川先生や三浦先生など、正しく聖書を理解した牧師さんのメッセージに出会っていただきたいと思っています。
三浦先生、これからもよろしくお願いします。
コメントありがとうございます。
それは大きな決断でしたね…。
長年親しんできた地域教会で、兄弟姉妹と共に聖書を学び、歩んでいく。
当たり前であるべきことが、なかなか当たり前にいかない現実がありますよね。
真理によってもたらされた主イエスの自由を、味わっていかれますように。
共に学び、交わり深めていくことができる、新たな出会いが与えられますように。
三浦先生いつもありがとうございます。
私の通う教会に以前いた牧師は、ハーベストの学びは非常に良い学びなのでしっかり学んでくださいと仰ってました。
ハーベストを悪く言う牧師は少数派だと思っています。
私自身、転勤などで多くの教会に行きましたが、いろいろな事がありました。
聖書の学びどころではない時もあり福音すらも、ぐらついた状態でした。
ハーベストの学びで、はっきりと福音がわかり少しづつ聖書の学びを通して信仰の土台がしっかりしてきました。
信徒同士でもメッセージのシェアしていますよ~
雑音に惑わされないで聖書をこれからも解き明かしてください。
コメントありがとうございます。
そんな風に、牧師に背中を押してもらえると、学びの意欲もさらに湧きますよね。
教会も活性化すると思いますし、win-winの関係を築けたら素晴らしいですよね。
メッセージ、用いていただいて感謝です。
ひたすら聖書の文脈を追いかける中で、少しずつみ言葉が血となり、肉となっていくのを感じています。
なにがあろうとなかろうと、コツコツ続けていきますね。