平和を聖書から考える
1. 千羽鶴にこめられた人々の祈り
ロシアの侵攻から間もない頃、ウクライナに千羽鶴を送ろうしたある団体が、「自己満足」ではないか、という批判を受けて断念したというニュースを目にしました。
東北大震災の被災地では、送られてきた大量の折り鶴の処分に困ったとも聞きます。
祈願を込めて鶴を折る慣習は、江戸時代から行われていたようです。
折り鶴が平和の象徴となったのは、広島の被爆者、佐々木禎子さんが、回復を願って千羽鶴を折ったことでした。
亡くなった禎子さんの思いを引き継ぐ形で、原爆の子の像が立てられ、毎年、多くの千羽鶴が送られています。
禎子さんと千羽鶴のエピソードは海外にも紹介されました。
千羽鶴は、「生きたい」という、被爆者児童の生存権を訴える象徴として捉えられたようです。
千羽鶴を、核兵器への静かな抗議の象徴として捉えるなら、ロシアのプーチン大統領にこそ、千羽鶴を送ったらいいと述べている記事を読みました。
平和活動に力を注いできた、自身、被爆者でもある人が、最近始めた活動は、「戦争ホウキ」と名づけたミニチュアのホウキをつくることでした。
折り鶴と一緒だと言われていました。その人なりの、一つの祈りのかたちなのでしょう。
なんであろうと、なかろうと、祈らずにはいられない。それが人間なのだと思い知らされます。
2. 裏腹な世界のただ中で
多くの人の切なる願いとは裏腹に、核保有国は増え続けてきました。
ロシアによるウクライナ侵略戦争では、核兵器の使用が懸念されています。
核を持っていたら、侵略は避けられたと考える人は、ウクライナにも、諸外国でも少なくないようです。
日本でも、核兵器を保有すべきだとという主張が強まっています。
ウクライナに対して、無差別の砲撃、非道な虐殺を重ねるロシアは、自軍にもおびただしい死傷者を出しています。
独裁者にとっては、数々の犠牲も、凄惨な戦争も、己の欲望を実現する一つの手段に過ぎないのでしょう。
戦後、平和活動に関わってきた人々が、今ほど、絶望と落胆に襲われたこともなかったのではないでしょうか。
なぜ、そんなことをするのか理解できないと、ぼやいていた人が、黙々と「戦争ホウキ」を作り始めた姿に、励ましを受けている人も少なくないようです。
3. 滅びに向かう世界の現実
私が感じるのは、なんとも言い表し難い、切なさ、わびしさです。
平和を願う、その思いは尊いものです。
しかし、何万本、戦争ホウキを造ろうとも、何万羽、何億羽、折り鶴を折ろうとも、それによって、地上に平和がもたらされることはありません。
禎子さんは、回復することなく、白血病で亡くなりました。
戦後77年が経過しても、世界に戦争は絶えることがなく、核戦争の脅威はむしろ増しています。
現実は、否応なしに分かっているからこそ、人は、見えない将来に希望を託すしかないのでしょう。
聖書が突きつけるのは、人は、人の努力によって平和を築き上げることはできない、という厳然たる事実です。
人の罪によって、神との親密な関係は断絶され、世界は壊れ、人は破壊に破壊を重ねてきました。
すべての人間が死を免れないように、人間の起こしたあらゆる文明も、一時の繁栄の後には、衰退し滅亡しました。
世界遺産は、滅んだ文明のコレクションと言えます。世界中に、人間の滅びの痕跡が残されています。
産業革命以降、技術革新によって大きな力を得、かつてない世界的規模の繁栄を遂げてきた人類ですが、今や、世界的衰退に向かっています。コロナ禍で加速しているのは世界的人口減です。
国が国に、民族が民族に敵対する世界戦争はすでに起きました。その火種は、いまだにくすぶり続けています。
600万人のユダヤ人が虐殺され、世界中で何千万もの人々が命を落とした世界大戦も、主イエスいわく、世の終わりに向かう生みの苦しみの時に過ぎません。
4. 人に平和は造り出せない
ある非暴力トレーニングのプログラムに参加した時、講師が、カードを放り投げたり、明らかに怒っていました。
長年、声を上げ続けたにも関わらず原発事故が起こり、なお事態が改善しないことに、その人は抑えきれない怒りを覚えていたのでした。
ドイツの指導者たちは長年、平和をもたらすと信じて、ロシアとの経済的な関係を深めてきました。
しかし今、平和を願ったパイプラインが、ロシアに戦費を与え、侵略戦争を後押しするもの、平和の実現を阻害する大きな足かせになっています。
平和を願わない人は、いません。武器商人でも、自分の家族や故郷では、やはり、平和を望むでしょう。
しかし、人は、人の力で平和を造り出すことはできません。
私たちが目の前の現実からも突きつけられているそのことを、繰り返し告げているのが、聖書であり、救い主である、イエス・キリストご自身です。
5. 希望の神に信頼を置こう
聖書の告げる平和とは、「神との和解」「神との平和」です。
人間が、創造主なる神から断絶された状況こそが、あらゆる争いと破壊の根源にあると聖書は記します。
折れた枝のような私たち人類には、滅びを待つほか、なす術がありません。
主イエス・キリストが、一連の説教で突きつけられたのは、どうあがいても自らを救い得ない、罪に堕ちた人間の絶望的な状況でした。
他者を欲望の目で見た瞬間から姦淫です。「こんな人いなければいいのに」と思う私は、心で殺人を犯しています。
神の目から見れば、心に思ったことも同じです。
なら、一体誰が、罪と無関係でいられるのか。逃げ道はありません。
偉大な預言者モーセ、使徒パウロが切に祈ったのは、自分の永遠の命と引き換えにしても、イスラエルを救ってくださいということでした。
彼らは、散々、神に背き、彼らをも嘲り、苦しめた、かたくなな民のために、命を投げ出して必死にとりなしたのでした。
それが、信仰者に求められた祈りなのだと突きつけられます。
なぜなら、主ご自身が愛するひとり子を、私の罪のために十字架にささげられたからです。
どうしたら、そのような愛に生きることができるのか。自分に力がないことは分かっています。
とにもかくにも、主が私に注がれた、一方的な、途方もない愛を受け取り、浸されること。
こんな私をも、主は救ってくださった。
主によって贖われた、もはや私のものではないこの命を、主の働きのためにこそ、ささげるように促がされています。
私が味わわされ、伝えたいのは、はかりしれない神の愛、それだけなのだと、今、心に迫ります。
ウクライナで、砲弾飛び交う現地になおとどまって、人々の切実な必要を満たし、なにより、神の平和をもたらすために、福音を告げ、礼拝をささげ続けている多くの教会とクリスチャンがいます。
世の終わりまで、主を信頼する一人一人と、主ご自身が共にいてくださる。この主の約束に支えられて。
信頼して従いなさい、わたしの平和を告げ知らせなさいと、憐れみの主が今も呼びかけ続けておられます。