NBUSをめぐって① 信仰者の宣言を考える
※この①の記事は、おもに福音派のクリスチャンの方々を対象に書いています。
リベラルな立場のクリスチャンの方々に対しては、②「2つの批判に答える」の方に記しています。
1. NBUSをめぐって
NBUS「神のみことばに立ってセクシュアリティを考えるネットワーク」をめぐり、騒がしいことになっているようです。
特に争点になっているのが、NBUSが採用した「ナッシュビル宣言」です。
私は、この宣言が、聖書的視点に立ちつつ、既存の教会の関わり方の反省と、LGBTQ当事者への配慮を持って書かれたものだと理解し、同意し、署名もしました。
この宣言を差別的だと言う反NBUSのネットワークが立ち上がっています。
聖書信仰に立つ人々の中では、共感の輪が広がる一方で、宣言の出し方や訳に問題があるのではないかと指摘する声もあがっているようです。
2. 宣言の事実をこそ、評価したい
私が、何より評価するのは、宣言がされた、という点です。
聖書信仰に立って、自らの信じる立場を明らかにした。公にされることに意味があるのが宣言です。
「人は、信じて義とされ、口で告白して救われる(ロマ10:10)」
この聖句は、典型的な対句法で記されています。一つの真理を、少しずつ違う言葉を重ねて表現する。それが対句法です。
このローマ10章10節では、福音を信じることと告白することを不可分のものとしています。
「信仰告白」という言葉は、信仰と告白(行い)が二つで一つだと示すものだと言えるでしょう。
「信仰によって救われる(ローマ書3章)」というパウロの言葉と、「行いがない信仰は死んだものだ(ヤコブ書2章)」というヤコブの言葉は、一つの真理を、それぞれ別な側面から言い表したものです。
人は、ただ信仰によってのみ、神に義と認められ、救われます。その信仰は、行いを伴うものでなければ意味がありません。
性に関して、聖書と全く異なる価値観が社会に急拡大し、聖書信仰に立つ福音派のクリスチャンすら浸食されつつある。
そのような危機感から、NBUSの宣言がなされたと聞いています。
日本の状況は、この十年ほどで大きく変化しています。
先日の選挙では、多数の党が、性の多様性を認める。すなわちLGBTQの人々の立場、主張を原則、そのまま受け入れることを挙げていました。
あるクリスチャン候補が出馬した党には、ゲイであることを公表した候補もいました。
そのような社会の状況の中で、NBUSは、緊急性をもって、まず宣言され、一石を投じました。
私はここに何より大きな価値を置いています。
3. ナッシュビル宣言の背景
NBUSで採用しているナッシュビル宣言自体は、元々、2017年にアメリカの福音派のクリスチャンの有志が超教派で出したものです。
その後、日本でも、様々な教団教派で学びがなされてきたと聞きました。
まず私が疑問に感じたのは、それらの教団教派では、なぜいまだに宣言に至っていないのか、ということです。
宣言に慎重になる理由は分かります。
まず、反対する立場の方々からの激しい非難や攻撃は目に見えています。
私自身も、過去に掲載した性についての記事で、単なる批判にとどまらず、「裁かれるぞ」とか「この国から出て行け」というようなコメントまで何度か受けました。
反対する立場の人とは議論にもならない、という現実を幾たびも突きつけられました。
こんなことに関わる必要があるのか。かえって、余計な摩擦を生じさせているだけなのではないか。
そのような声も、個々の教会内には強くあるだろうと思います。
教会は、世のことに関わるべきではないと、より強く主張する人もいます。
このことがらに触れること自体が、教会を二分する危険性をはらんでもいるでしょう。
また、過去において教会は、LGBTQの人々を独善的に断罪する間違った聖書解釈に基づいて、憎悪を煽る結果を招いてもきました。
当事者を傷つけないように、不要な誤解を生まないように、という配慮は求められると思います。
“すべての人は罪人であり、神の目から見れば大差ない。どんな罪を抱えていようとも、キリストの十字架の贖いと復活の福音を信じて救われる。”
この信仰と恵みに、徹底して立った上での配慮が、必要でしょう。
私は、そのような配慮もなされていると理解して、署名をしましたが、十分でないのではないか、という意見をお持ちの方もいるようです。
地道にナッシュビル宣言の学びを続けて来られた方が、訳の問題を指摘されているのを読みました。
丁寧な解説になるほどと、納得させられました。
一方で、大意としては現行の訳で問題ないし、宣言を出すことを妨げるほどの理由でもないとも私は感じました。
宣言にいたる、アメリカでの経緯が、NBUSでは記されていないという指摘もあります。
確かに、文脈の説明をされたらなおよいとは思いますが、そもそも日本の福音派のクリスチャンには、世と対峙し、LGBTQの人々と顔と顔を合わせて関わってきたというような、文脈そのものが、極めて薄いのではないでしょうか。(※追記:NBUSのHP上で、随時、いろいろな資料や解説が追記されています)
語るべき文脈を持っていないとするなら、日本の福音派のクリスチャンがまずなすべきは、自分自身の信仰的立場を、社会的に公にすることだと私は考えます。
私が過去に掲載した記事に対して、裁かれるぞとか、この国から出て行けとか、恫喝や呪いのようなコメントもあった一方で、罪責感の葛藤の中で、切実に救いを求める当事者の声もありました。
聖書信仰に立つクリスチャンとして、誰に対しても、伝えるべきことは、変わりません。
「主は、ひとり子を犠牲にするほどに、あなたを愛しておられる。あなたのために、キリストは十字架にかけられ、死を打ち破って復活された」 この福音だけです。
誰にとっても深刻な罪の問題は、信じたからといって一気に解決することはないけれど、信頼して歩む過程で与えられる平安があり、一切の苦痛から解放される将来が確かに約束されている。
ここに、私たち信仰者の希望はあります。
主は時に、激しい嵐のただ中に踏み出すことを求められますが、そのただ中で、出会わされる、救われるべき一つの魂があることも、教えられています。
非難も批判も誤解も、当然起こるでしょうが、そこでひるんで、公に告白しないなら、それこそ、信仰が問われるのではないでしょうか。
4. 少数者が沈黙するなら?
ナッシュビル宣言がなされたアメリカと日本の社会状況には、大きな違いがあります。
聖書信仰を建国の基盤に持ち、衰えてきたと言われつつも、今なお多くの福音派のクリスチャンがいて、社会に一定の影響力も及ぼしているアメリカ。
一方の日本では、聖書を原典の通りに信じる福音派のクリスチャンが何人いるでしょうか。
諸教派合わせた日本のクリスチャンは、総人口の1%と言われます。
その中で、さらに福音派というと、日本人の1000人に一人、いるかいないか。
現実的な数字は、そんなところではないでしょうか。
LGBTQの当事者は、調査の仕方にもよりますが、全人口の数%か、あるいはもっと大勢いるとも言われます。
人数や社会的影響力で言うと、日本においては、福音派のクリスチャンの方が、LGBTQの当事者よりもはるかに少ないのは間違いありません。
ネットの世界では、沈黙している人は存在しないのと同じです。
圧倒的少数者の日本の福音派クリスチャンが沈黙し続けるなら、世の波に呑み込まれて行くだけでしょう。
5. 今、信仰者が宣言すべきこと
キリスト新聞社が、統一協会についての記事の中で、NBUSのことを挙げていました。
取り上げ方自体に、極めて意図的なものを感じざるを得ないわけですが、松谷信司編集長は、twitterで、NBUSを「極右」と述べていました。
極右という政治的なレッテル貼りを、仮にもキリスト教の報道人が、逡巡もなく行っているというところに、日本の社会の現状がよく現れています。
彼の確信的な態度は、自分が多数派の側に立ち、少なからぬ影響力を行使しているという、その自覚から生まれているように感じます。
松谷信司編集長のような立場のクリスチャンを、福音派からは、「自由主義神学」、「リベラル」と呼びます。
私自身、その中に身を置いていた者です。
聖書をそのままに信じるクリスチャンが現代社会にいまだにいるなど、信じられない思いで、「原理主義者」と呼んでいたのを思い出します。
聖書を神の言葉と認めていない人と、聖書に基づく議論はできません。
立つところが、そもそも全く違うわけですから、いくら配慮をしても、壁にぶつかります。
聖書信仰に立つクリスチャンにとって、性の問題は重要です。
なぜなら、神が人を男と女に作られたという、創造の原点であるからです。
人の犯した罪によって、あるべき性の関係は壊れてしまった。
それでも、性について、神の定めた規範は今も変わりません。
人は、男と女に作られ、それぞれ、父母を離れて、夫婦となります。
神は、人を愛し合う者とするために、関係性を持った存在として作られました。
なぜなら、神ご自身が、父子聖霊という、完全な愛の関係性を持ったお方だからです。
究極的には、福音を信じた者すべては、キリストの花嫁として迎えられます。
神との結婚がゴールであり、人は、キリストの十字架と復活の福音を通して、神の愛の完全な関係性の中に招かれています。
このように、地上において、性を通して示された神のご計画があるのです。
性という神の規範を破壊する働きに対しては、聖書を根拠に否と唱える。
それが今、信仰者に求められていることではないでしょうか。
NBUSは、一つの提案の形に過ぎません。
賛同しがたい部分があるのなら、各々に、この社会に向けて宣言をすればよいと思います。
今の教会時代には、すべてのクリスチャンが、神の宮を守る祭司とされています。
様々な文明、国家、民族が交錯する、世界のハイウェイとも呼ばれる場所、エルサレムに、主は神殿を建てられました。
世に向かって、神の栄光を現す場、それが神殿です。
今、福音を信じた一人一人が、神の宮、神の祭司とされていると言うのなら、神の規範を破壊する力を前にして、沈黙していてよいはずがないのです。
預言者も使徒も、語るべき主の御言葉を携え、世に派遣されていきました。
信仰者が、御言葉を抱きかかえて、内にこもっていていいわけがありません。
今、終わりに向かう世のただ中にあって、私が人々に宣言すべきことは何なのか。
否応なしに問われています。
➡後編: 「NBUSをめぐって② 二つの批判に答える 性的指向・自認は先天的? 回復治療は人権侵害?」
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新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会
Comment
我が家においても、なぜ署名をすることが必要なんだろう?と話したことがあります。しかし、主の前に宣言することがどれほど重要なものか改めて気づかされました。
また、リベラルや、自由主義神学と一口に言いますが、その言葉の意味はなんなのか?今まで使っていた使い方は正しい認識だったか不安になりました。吟味して主に導かれたいです。
主にあって宣言するものの上に聖なる恵みが降り注がれることを期待します。
コメントありがとうございます。
「なぜ署名をすることが必要なのか」 本質的な話を家族の間でできるということが、ステキですね。
私たちは、なかなか、異なる立場の人々と接する機会がないと思います。
今のネット時代は、分断がさらに進んでいるので、なおさらです。
リベラル、自由主義神学と言っても、その実体が、どういうものなのか、福音派の中にいた方に、なかなか分からないのは当然だと思います。
今回、「憂慮する会」の抗議や一連のやりとりを通して、その本質がよく現れているなぁ、と感じています。
よい機会を与えられたので、別途記事にする予定です。