クリスチャンの決断力 行動なき信仰は、信仰にあらず
1.決められないクリスチャン?!
百年に一度という激変のただ中にある自動車業界。自動車会社からモビリティカンパニーへと大きく舵を切ったトヨタで、技術開発のために、新たな町をまるごと造るとぶち上げたのが豊田章男社長でした。
豊田氏は、トップに求められるのは、責任と決断であると明言されています。そういう決意と覚悟が、人をして、優れたリーダーと呼ばせているのでしょう。
大会社の社長でなくとも、誰もが何かの場面で、リーダーとしての責任を負わされる瞬間があります。
進学、就職、結婚、家庭や仕事において、人生には、重大な決断を求められる局面が、度々やってきます。
家庭で仕事で、リーダーに求められるのは、重大な局面での決断です。
すべてのクリスチャンには、未信者に対して、信仰におけるリーダーとしての責任が求められています。
しかし、最近、気になっているのが、クリスチャンの決断力です。
大事な場面で決断できない、責任から逃げてしまう。そんなクリスチャンの姿が、度々、目について仕方ないのです。
兄弟姉妹との約束を守れない。主の前で約束したことを果たせない。人生の重大な局面で、大事な一歩が踏み出せない…。
教会の中でそうなら、家庭や職場では一体どうなのだろうと気にかかります。証しになるどころか、つまづきの元でしかありません。
2.祈ってから、は、信仰的?!
決断できないクリスチャンの決まり文句が、「祈っていたので」。
「祈っていたので(決められなかった)」「祈って平安がなかったので(行動しなかった)」…。
そして、今も「祈っているので」、決断できないままでいる。
「祈っている」その一言で、すべてがすまされてしまうなら、何年でも何十年でも、祈り続ければいいだけです。
しかし、聖書は、そんな祈りを祈りと呼ぶでしょうか?
アブラハムが信仰の父と呼ばれるのは、主の命令に即従ったからです。
ペテロが使徒のリーダーとされたのは、何より彼が、波間に踏み出すほどの、実践の人であったからでした。
ペテロが多くの失敗をしたのは、それ以上に多くの行動を起こしたからです。
召命に際して、言い訳を並べたモーセは、主に厳しく叱責されましたが、それでも決断は、その時にしています。
主に召されたとき、祈ってから決めますと答えた聖徒が、聖書にいるでしょうか。
聖書的には、それはただの不信仰です。
主の命に背いて逃げ出した預言者ヨナ。しかし、それは、神に逆らっている明確な自覚をもっての行動でした。
主に求められる答えは、「はい」か、「いいえ」。主イエスが言われた通りです。(マタイ5:37)
クリスチャンの内には、聖霊が住まわれています。
私たちが、主の御心が分からないと言う時も、多くの場合、本当は、分かっているのだと思います。
こうするしかない、と、分かっているからこそ躊躇して、「祈ってから」と逃げてしまう。
それが、私たち人間の弱さ、罪なのだと痛感します。
聞きとったなら、行動する。
確信は、行動の結果であって、何もしないでは得られません。
行動の伴わない信頼は、信頼ではありません。
何週間も山にこもって、ただ祈っていたというのは、要するに、決断をひたすら先延ばしにしていたというだけのことです。
モーセが40日間、シナイ山に上っていたのは、律法の学びと運用のための訓練期間であり、行動の時でした。
一向に状況が変わらないと不平を言う前に、なすべきことを先延ばしにしていないか、私たちは問われます。
3.失敗を恐れないこと
行動できない人の問題は、神について誤った理解をしていることです。
主イエスのミナのたとえ(ルカ9章)。主人から資産運用を任された大金の1ミナを包んでしまっておいた僕は、こう言い訳しています。
「あなたは計算の細かい、きびしい方ですから」と。
その言葉通りに、主人は厳しく接し、お金を取り上げてしまったのでした。
祈ってばかりで行動しない人は、1ミナを預かった僕のようです。
その人は、神を、失敗を責める厳しい方だと思って、怖じ気づいて動けないのです。
それは、とんでもない間違いです。
ペテロは、たくさんの失敗も犯しましたが、失敗によって罰を受けたことも、役目を取り上げられたこともありません。
三度イエスを拒んだ最悪の過ちすら赦されて、教会のリーダーの使命を託されました。なぜでしょうか。
ペテロは、失敗してもなお、悔い改めて、次の一歩を踏み出すことを決断したからです。
失敗を犯さなかった聖徒はいません。
姦淫と殺人を犯したダビデは、自らの蒔いた罪の刈り取りで、晩年、非常な苦しみを味わわされました。
重大な過ちにもかかわらず、なお、ダビデは、信仰の人だと讃えられています。彼もまさしく、主に聞き従い、チャレンジし続けた、行動の人でした。
主は、失敗をとがめる方ではなく、チャレンジを喜んでくださる方です。
4.信仰も、ヘブル的であるべき 聖書理解だけでなく
ヘブル的に聖書を学ぶなら、信仰も、ヘブル的に変わっていくべきです。
ヘブル的には、思いと行動は一つです。
思いと行動が別々では、主イエスが厳しく非難された、偽善の律法学者、パリサイ人と変わりません。
異邦人の特徴も同様です。
初代教会を悩ませたグノーシス派という異端は、霊と体を分けて考えました。
人の肉体は汚れているが、霊はきよい。体の汚れは、霊とは関係ないのだから、信仰さえあれば何をしてもいいんだと、倫理的な堕落をもたらしたといわれます。
行動が伴わなくても、祈ってさえいればいいという考え自体が、非聖書的で、異端的なのです。
伝道は、間違いを恐れたら、何もできません。
聖書の学びでも、枝葉末節にこだわって、重箱の隅ばかりつついている人がいます。十中八九、そういう人は、実践が伴っていません。
私たちの弱さも欠けも、重々承知の上で召された全知全能の主は、完璧など期待されているでしょうか?
クリスチャンの決断力の源は、主への信頼です。
四の五の言わずに、踏み出せばいい。
間違いだったら正されます。聖霊の導きを信頼しましょう。
重責を担い、大きな決断をなす人がいます。その人は、自分の責任から逃げず、多くの決断を重ねてきた人です。
小さな決断の積み重ねの上に、大きな決断があるのです。
使徒ペテロが、身を持って教えてくれています。
直前の大失敗にも関わらず、踏み出した次の一歩の価値を認めてくださる。それが、私たちの父なる神、子なるキリスト、助け手なる聖霊なのです。
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