被害者意識の罠から抜け出そう
目次
1. 被害者意識を競い合う世界で
かつて私が卒業した、とある神学校。リベラル・自由主義神学の極みにある学校だったと思います。
そこでは、多くの学生は、こんなところには二度と戻って来たくないと言って卒業していきました。
常に相手の揚げ足をとって互いに非難し、傷つけあう。そんな学生生活に疲れ果ててのことでした。
社会的少数者の神学を掲げる学校には、LGBTQ、被差別部落出身者、在日外国人など、多様な立場の人々が集っていました。
それぞれが互いの権利を主張し、非難しあい、学校の体制や教師を批判し、いつもギスギスしていました。
一方は、「差別発言」をしたと糾弾し、突き上げられた方は、激しく反発し、あるいは頑なに拒絶する。
そんなことが、さまざまな側面から繰り返されて、互いの溝は深まっていくだけ。
糾弾する側にも、される側にも身を置いたことがありますが、本当に不毛で、虚しいやりとりだったと思い起こします。
社会運動に熱心に取り組む人々の界隈に身を置いたこともあります。
しかし、社会正義の実現を目指す人々の中で、ハラスメントが絶えず、暴力的な言葉や支配が蔓延している。その矛盾に嫌気が差しました。
あれから20年。今の社会を見て驚くのは、あの頃の神学校や運動団体で感じた空気が、日本全体、世界全体に広がっているように感じられてならないということです。
2. 「被害者」という言葉の危うさ
身に染みてきたのは、「被害者」という言葉、立場の危うさです。
「私は被害者で、あなたは加害者である」と言い立てる時、別な暴力が見過ごされ、正当化されてしまう、そんな場面に度々遭遇してきました。
たとえば、「この制度は不当だ。人権侵害だ」と言って、運動家が役所の窓口で怒鳴りつける時、窓口に立つ相手も生身の人間だという認識は欠落しています。
日本の戦後の教育は、過度に加害者意識を強調してきたという批判があります。
しかし、それが、被害者意識のすり込みであったなら、もっと深刻な、破壊的な影響をもたらしていたことでしょう。
神学校時代の混沌の中で、ある人がぽつりと、「俺にも何か主張できるものがあったらよかったのに…」とこぼしていたのを覚えています。
その人いわく、自分は、典型的な日本人男性であり、何か、マイノリティと主張できるものはない。自分にも被害者だ、差別されている、と訴えられる要素があったら…ということでした。
誰かの耳に入ったら、たちまち糾弾されそうだと思いながら、共感する思いもありました。
屈折した発言の背景に、「私は、差別された被害者だ」と声を上げる人が力を持つという、歪んだ現実があることを感じていたからです。
他方、私の苦しみが理解されないと叫ぶ人が、声を荒げるほどに周囲との対立を強め、孤立を深めてもいました。
「差別だ」と騒ぐその人の周りで、支援者であるはずの人々までもが、腫れ物に触るかのように沈黙する。何という孤独かと思います。
私たちの社会に、改正すべき不公平な制度や、見過ごせない差別や偏見が存在するのは確かです。
しかし、被害者意識に凝り固まってしまうなら、問題解決から遠のくばかりか、自らの苦悩も強まっていくばかりではないでしょうか。
3.被害と加害、客観的な認識を
「私は、このような被害を受けた」という客観的な認識は、時として必要です。
一方的な暴力の被害を受けたにも関わらず、私が悪いと自分を責め、苦しむ人は多いからです。
暴力や人権侵害があったなら、害を加えた当人の責任の所在は明確にすべきです。
私が問題とするのは、「被害者」という言葉です。
「被害者」という立場にくくられた途端、その人は、ひたすら受け身にされ、積極的に動く力を奪われます。
「被害者」「加害者」という言葉は、お互いの立場を固定し、両者の間に越えがたい溝を作ってしまうのです。
しかし、現実は、はるかに複雑で入り組んでいます。
「被害者」が、「加害者」を抑圧することもあります。
その「被害者」は、他者との関係性においては、「加害者」であったりします。
「被害者」という立場にいた人が、いざ自分が「加害者」の側に立たせられると、頑なに拒絶する。そんな場面にも、何度か遭遇してきました。
「被害者」という立場には、甘い罠があります。
それは、すべての責任を、「加害者」である相手のせいにしてしまえることです。
あらゆる原因を転嫁してしまうなら、自分自身を問うことには至りません。
「被害者」という立場がもたらす最悪の結果は、当人から、精神的な成長の機会が失われてしまうということです。
4. 極まる被害者意識の最悪の結末
被害者意識を昂じていけば、最後には自分自身を破壊してしまうでしょう。
「加害者」が自分の非を認め、謝罪してくれることが希にあったとしても、その人の態度は決して、満足できるものになどなりません。
他者を変えることはできません。誰も、自分の要求のすべてに応えてはくれません。
「なぜ認めないのか」と高ぶる怒りは、ついには自身を痛めつけてしまいます。
「被害者」に自分を固定し、「加害者」を糾弾をし続けてきた人の中には、心を病んでいる人も少なくありません。
私自身の実感でもあります。
最も被害者意識が強い人とは、無差別殺人犯、あるいは独裁者ではないでしょうか。
“私の苦しみは、私以外のすべての人間のせいである”という、極まった被害者意識が、殺人や人権侵害、侵略をも正当化してはばからないのです。
「私が死ぬか。私以外のすべてが死ぬか」
そんな被害者意識の極みに陥った人を待つのは、破滅しかありません。
5. 不条理の末に慰めを得た、ヨブの信仰に学ぶこと
罪に堕ちたこの世で、私たちは不条理の犠牲となることがあります。
どうして私が、これほどの苦しみを負わなければならないのか。納得のいかない思いを味わわされます。
聖書が求めるのは、それでも主を信頼せよ、ということです。
ヨブは、主に従う信仰者であったにも関わらず、富と家族と健康すら奪われました。
ヨブの信仰を疑う悪魔に対して、神が、ヨブに試練を与えることを承諾されたからです。
神が許された範囲の中で、悪魔がヨブに災いを下したのです。
ヨブが信仰者と認められたのは、なお、主を見上げ続けたからです。
ヨブは、納得のいかない思いも、叫びもすべて、ただ主にぶつけ続けました。
聖書が求める信仰。その原点は、神を仰ぎ見ることにあります。
聖書が問うのは、常に、「私の信仰」です。
神を仰ぎ見た者は、自分自身の罪の現実を思い知らされます。
私の罪とは何か。自らを見つめ、悔い改めるべきことを悔い改めること。
罪の認識の深まりと、悔い改めは、より深く、神の愛を知ることに導いてくれます。それが何よりの力になるのです。
ヨブ記の結末に、悪魔の存在感は皆無です。神と信仰者の間に、何者も入る余地はないからです。
6. 教会で傷ついた、と言う、あなたへ
ある牧師の体験談です。
その牧師は、ある時、信頼していた近隣のとある宣教師とその教会が、完全にカルト化していたという逃れようのない事実を突きつけられました。
関係した人々に話を聞くと、金銭的被害、様々なハラスメント、精神的虐待、動物虐待、情報の遮断、恫喝…。カルトとしか言えない状況がこれでもか、と出てきました。
その状況を見過ごしてきたことに責任の一端を感じた牧師は、大きな被害を被った方の支援に関わり、仲介を引き受けた他の牧師が設定した場で、その宣教師と何度か話し合いの時を持ちました。
宣教師から謝罪の言葉は一切なく、声を荒げて自らの正統性を主張するばかりでした。
被害を受けた当事者の思いは、いかほどのものだったか。精神的に病んでしまってもおかしくないと思えるほどの状況でした。
しかし、それでも守られたのは、被害を受けたその方が、神の前に、自分自身の責任を認められたからだと牧師は理解しています。
「聖書はずっと手元にあったのだから、真理を求めていたなら、主は必ず応えてくださって、このような偽教師の罠に陥ることもなかっただろう。」
そのようにして、被害を受けた方は、ご自身の責任を神の前に認められたのです。
被害を受けたその方は、今は、聖書を学ぶことが、楽しくてたまらないと言われています。教えられます。
しばらく経って後、牧師は、カルト教会の宣教師が、重病を患っていると聞き、絶句したそうです。
当人の苦難の意味は、他人が軽はずみに断じるものではありませんが、聖書が明確に示すのは、義なる神は、決して、罪をうやむやに放置される方ではないということです。
主イエスが、もっとも厳しい警告を発せられたのは、誤った教理で人々の心身を縛り付けている偽教師たちに対してでした。
ゆるすとは、公正な裁き主である神の手に委ねるということです。問われるのは、常に、私と神との関係です。
7. 不条理の末に慰めを得た、ヨブの信仰に学ぶこと
私たちにとって、主との交わりを深めること以上の支えはありません。
被害者の罠から抜け出すために、私自身の責任を自覚しましょう。
自分の責任を自覚することは、自分を責めることとは違います。
自分が負っている責任の範囲を認識することが、背負い込んだ過剰な重荷から私を解放してくれます。
私は、この部分において、確かに責任を負っていると自覚する。
それは、今もなお、私は、自分自身の人生に積極的な影響を及ぼす力を与えられていると認めることです。
その力は、ただ、主に信頼するところから、湧き出ます。
納得のいかない不条理を前にしたなら、なすべきことは一つです。
全知全能の主に、ただ信頼すること。すべてのことには、神が与えた意味があります。
私たちに与えられる何よりの力は、神との関係、信仰の領域において、自分の責務を明確に自覚し、それを実行することで与えられます。
すべての信仰者は、キリストの体の一部とされている以上、与えられた役割、使命が必ずあります。
私は、どのような形で、神の計画の進展に貢献することができるのか。
私の取り組むべき課題、なすべきことを教えて下さいと主に祈り求めましょう。
それは必ず応えられる祈りです。
主イエスは、十字架を目前にしてゲツセマネで祈りをささげ、神の怒りの杯を飲み干すことを決意されました。
死への勝利をもたらした決断は、主イエスが明確に、ご自身の使命を認識された結果でした。
私たちも、主に聴き、与えられた使命に生き、力を得ましょう。
ローマ人への手紙 8:28
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。