十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

障害者差別と優生思想。その根っこにある進化論

 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

あらゆる障害者差別の通底にあるもの

ポケモンGO、相模原障害者殺人事件、ナチスの障害者殺戮。三者に共通することがあります。

それは、進化論という価値観に根ざしているということです。優れた種が生き残るべきだという優生思想は、進化論の申し子です。

かつてファシズムの嵐が吹き荒れた大戦が終わり、世界は新しい歩みを始めたように見えました、

しかし、戦前も戦後も変わらず、むしろ、強化して教えられ続けた価値観、それが、進化論です。

“すべての命は偶然出現したもので、厳しい競争と無数の殺戮の結果に過ぎない。”

…そこに、命の意味など求めようがありません。

 

学校が、社会が、その価値観を認め、教えている

誰が植松容疑者に、あんな事件を引き起こす口実となる価値観を教えたのか?

それは、学校であり、日本の教育です。彼は、学校で、大学で、この社会の中で、学んだのです。

もちろん、学校で、命を殺していい、とは教えません。しかし、進化論という価値観に根ざしている限り、表面をどう言い繕おうとも、本質はそこにあるということです。

そして、彼は、この社会の価値観の本質に、ある時気づいたのでしょう。

植松容疑者が、事件を起こす前、周囲の人々に、「障害者は死んだ方がいい」と自説を主張していたことが報道されています。

彼は、そうやって、自分の確信の正しさを確認していったのだろうと思います。誰も反証できないじゃないかと。

進化論を信じる立場から植松容疑者の行為を非難しても、なぜいけないのか、説明しきることができません。

武器大国である敵からピストルを買って対抗しても、戦いにならないのと同じです。

命を軽んじる価値観に対抗するためには?

命は偶然の結果に過ぎない、と、命を軽んじる価値観に対して抵抗するためには、命を貴ぶ価値観に立つしかありません。

命を貴ぶ価値観とは、すべての命は設計者によって目的を持って造られたのだ、という価値観です。

すなわち、すべての命は創造者によって造られたのだ、という、聖書に基づく価値観です。わたしは、そこに立っています。

論理的な思考の結論としても、わたしは、創造主による命の創造を信じます。

草むらに落ちていた時計を見つけて、これは、様々な鉱物が偶然に精錬され、様々な形状に偶然加工され、偶然組み合わさって、できたんだ、と言う人はいるでしょうか。

その時計を落とした人がいて、造った人がいて、設計した人がいたのです。

ましてや、桁違いに複雑で精密な生命が、偶然、出現するでしょうか?

品種改良によって、一つの種から多様なバリエーションが生まれます。

しかし、いくら犬を品種改良しても、犬ではない何か別の新しい種が生まれることは、決してありません。

なぜ、命は尊いのか?

なぜ、命は尊いか。創造主ご自身が、造られたすべての命を「よし」とされ、「尊い」と言われているからだと聖書は記します。

「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。(創1:31)」
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザ43:4)」

なぜ殺人はいけないか、進化論に立つ限り、説明できません。

しかし、殺人は、とにかくいけないことなのだとは、多くの人は分かっています。人の心にある良心が、殺人はいけないことだと叫ぶのです。

人に良心があるのはなぜか? それは、人が神の似姿として造られたからだと聖書は記します。

「神は御自分にかたどって人を創造された。(創1:27)」

霊である神に似せて造られた人間は、その良心において、神の似姿なのです。

そして、 「神は愛です。(ヨハネの手紙Ⅰ 4章16節)」

一人の職人が、丹精込めて造った、世に一つしかない工芸品に、大きな価値が認められるなら、 愛である神が、愛情もって、一つ一つを唯一無二の存在として造られた命は、どれほど尊いものでしょうか?

どの価値観に立つのか? どの価値観が真理なのか?

今ほどに問われている時はないと、痛切に感じています。

【2016年8月15日記】
※このコラムは、相模原障害者差別事件を受けて、キリスト者として、ダウン症の子を持つ親としての立場から記したものです。写真の「十字架」は、息子の和実の作です♪

付記:現在の進化論における修正と、変わらない本質

この記事に対する、進化論を支持する立場からの意見がありました。

要旨は、以下のようなことです。

「進化論は、優秀な個体が淘汰の結果生存していく、という理論ではない」

ダーウィンに、その気があったかどうかに関わらず、歴史的には、「種の起源」に、多くの人々が飛びつき、まさに、「優秀な個体が淘汰の結果生存していく」と解釈したのは、否定しようがないと思います。

資本家は、労働者の搾取、植民地主義を正当化し、共産主義者は、共産国家こそ、人類の進化の帰結だと主張しました。ナチスによる、重病人や障害者の殺戮に、多くの医師、医療関係者が積極的に関与しました。

また、このような反論もありました。

「進化と生物学で言われている現象は、めくるめく動的変化の中で、何が生きていくことにプラスに作用するかなんて、どんどんかわるのだから、何も無駄なんてものはない」

とても興味深い意見です。冒頭の「進化と」という言葉を外していただければ、この論には、わたしは全面的に賛成です。

この反論が説明しているのは、進化論のことではなくて、現実に自然から観察されることだからです。

進化論の主張と、現実に自然から観察されることとの間にある大きなギャップを、進化論者自身も認めざるを得ないということではないでしょうか?

 

 

 

 

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