わたしが創造主と出会わされた地・北海道

      2018/01/12

はじめての北海道

北海道へ来て、2017年春で16年目を迎えています。南国宮崎の出身のわたしが、北海道に始めてやってきたのは、大学生の頃でした。フェリーで小樽から入り、40日間、自転車で北海道を旅したのです。

エルニーニョ現象が騒がれた、記録的な冷夏でした。重たい雲が垂れ込め、朝方の気温が一桁という日も珍しくありませんでした。広大な北の大地で、自然の厳しさを思い知らされる旅でした。

ある時、大雪山系の樹海のただ中にいました。行き交う車もまれで、霧が立ちこめる中を、なんとも心細い思いで走っていました。笹藪が揺れるだけで、ドキッとします。こんなところで熊に出くわしたら…。不安は募るばかりでした。

自分という存在のちっぽけさを思い知らされました。が、ある瞬間、ふと心によぎった思いがあったのです。吹けば飛ぶような自分が、でも確かに、今、この瞬間を生かされているのだと。

確かに、自分を支えている大きな存在がある。

その確信で心が満たされたとき、ちっぽけな自分が抱えていた、ちっぽけな不安、思い煩いが吹き飛ばされたようでした。心が軽く、何か嬉しくてたまりませんでした。

創造主との出会いから

聖書に、神は、ご自身が造られた世界を通して、すべての人に語りかけておられるとあります。わたしは、この時、天地を造られた神がおられることを、全身全霊で、否応なく思い知らされたのでした。

旅を終えてしばらくして、イエス様との出会いに導かれました。創造主を受け入れられた者は、救い主と出会わせられると、聖書が約束している通りです。

「イエスという人は、本当にいたんだ」 そう確信させられた瞬間、なら、この方に従っていくほかないと強く心に思わされたのです。

その後の信仰の歩みにおいては、大きく道を逸れ続けていたようにも思います。しかし、北海道で神と出会わせられた、あの原体験が、わたしの心を捕らえ続けていたのでした。

聖書の教える救いの原則

聖書の救いの大原則は、信仰により、恵みによって救われる、ということです。神様が、私たちに命を与えられ、救いの手を差しのばしてくださっています。私たちに求められているのは、この一方的に与えられた恵みを、ただ、信頼して受け取るだけ、です。

そして、信じた者に成長をもたらすのも、信仰です。自分にはどうにも変えようのない自分を、神様が変えてくださる。信じて救われ、信じて成長させられていく。すべて、神様からの一方的な恵みなのです。

では、具体的に何を信じたらいいのか。まず、自分に自分は救えないと、神に降参することが必要です。自分の愚かさ、ちっぽけさ、罪深さを、神様の前で認めるのです。それは、天地を造られた創造主なる神様を受け入れることです。

神様は、ひとり子イエスを十字架にかけ、私たちの罪を身代わりにおってくださいました。死んで墓に葬られたイエスは、三日目に死を打ち破って復活されました。信じるべき内容は、このことです。

つまり、イエス・キリストが、わたしの罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、復活されたと信じること。そのような方として、イエス・キリストを、あなたの人生の主として受け入れることです。

あなたの前に差しのばされた神の救いの手があります。決意して、一度握り返すならば、神は二度と、その手を離されることはありません。それが、聖書の記す救いです。

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