クリスチャンと飲酒について考える 現代の口伝律法が教会にもたらす悪影響
目次
1.聖書は飲酒を認めています。
明らかに聖書は飲酒を認めています。
イエス様の最初の奇跡は、水をぶどう酒に変えるものであり(ヨハネ2章)、最後の晩餐(過越の食事)では、ぶどう酒の杯を契約のしるしとして、弟子たちと酌み交わされました(マタイ26:28他)。これが、聖餐式の原型です。
「イエス様が飲んでいたのは、ブドウジュースだったのだ」と主張する人がいますが、いかにも苦しい言い訳です。
絞った瞬間から発酵を始めるのがブドウです。2,3日もすれば、お酒になっています。
当時は、発酵を止める方法もありませんでした。酸化防止剤なんてなかったのです。
ジュースとお酒を区分する境い目など、そもそもありませんでした。
2.聖書は酩酊を戒めています。
聖書が禁じているのは酩酊です(ロマ13:13)。
我を失うほどに飲むことは、神から心が離れ、アルコールに心を支配されている状態だからです。
酩酊は、神を第一にせよという聖書の命令に反しています。
3.飲酒についての取り扱いはどうあるべきか?
聖書に従えば、「飲酒はよいけど、酩酊はしないように」となります。
あとは、個々のクリスチャンや教会が、おのおのの立場で適応すべきことがらです。
現在の日本の教会の多数が、聖餐式でワインではなくブドウジュースを用いています。鹿追教会もそうです。
日本人に、体質的にお酒を全く受け付けない人が比較的多いことや、アルコール依存症の人への配慮で、そうすることは納得できることです。
ワインだけのところ、両方用意するところと様々ですが、それぞれの教会のおかれた状況に応じて決められたらよいことです。
個人的な飲酒については、互いに信頼関係があるなかで、たしなむ程度なら、問題ないと、わたしは思います。
(補足:その地域教会の置かれている背景から、禁酒を教会のルールとすることはアリだと考えます。例えば、その教会に、アルコール依存症の人々が多く集っていて、その人々の回復が教会全体の重要な課題となっている場合などです。)
4.飲酒はダメだと言ってしまうことの聖書的問題
上記のように、飲酒自体は、どちらでもよい、グレーゾーンのことがらです。
しかし、「飲酒はダメだ」と、画一的に禁止してしまうなら、それは、非聖書的であり、非常な問題を孕んでいるとわたしは考えます。
なぜなら、そこには、「律法主義」という問題が生じてしまっているからです。
イエス様が最も厳しく断罪されたのが、パリサイ派の「口伝律法」でした。
誤解されている人がけっこういるのですが、イエス様は神の「律法」は完全に守られました。
否定されたのは、人間が神の律法に付け加えた「口伝律法」であり、人間の言い伝えに過ぎない口伝律法に聖書同等の権威を認めたのが、「律法主義者」たちでした。(口伝律法とパリサイ派の誕生については、こちらへ)
福音を信じて、洗礼を受ける時に、「あなたはクリスチャンになるのだから、お酒は飲まないように」と指導する教会があります。
このことの何が問題かというと、パリサイ派同様の律法主義に陥っていないか、ということです。
現代の教会における律法主義の最大の問題は、人の行いが救いの条件となってしまうということです。
(補足:パリサイ派は、ユダヤ人であれば全員救われると教えていました。口伝律法を守ることで神の国で高い地位が与えられると、報いの部分で行いを条件としていたわけです。)
聖書全体を貫く救いの条件はたった一つ。人は、信仰と恵みによって救われるということです。
今の教会時代においては、イエス・キリストがわたしの罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、復活したことさえ信じれば、救われるのです。
福音を信じて救われた人が、クリスチャンです。
しかし、ここで、クリスチャンになったらお酒を飲んではならないと言ってしまうなら、どうでしょうか?
それは、救いの条件に、禁酒をする、という人間的な業を加えてしまうことになります。
福音に何か余計なものを加えてしまったら、それはもはや福音ではありません。
三つ星レストランのシェフが作った完璧なスープに、味が薄いからとソースを垂らせば、すべてが台無しです。スープの完璧さは失われてしまいます。
スープなら、本人の好みで味を足してもいいでしょう。
しかし、神の救いの業に、人間の業を加えれば、神の完璧な救いの知らせである福音そのものを破壊してしまうことになります。
では、禁酒を、クリスチャンになることの条件として、福音に付け加えて信じて、洗礼を受けた人は、救われているでしょうか?
残念ながら、その人は、救われていない、と言わざるをえません。
神様の完璧な福音に余計なものを付け加えて破壊してしまったわけですから、それはもはや福音ではないのです。
5.それは、勧め?、それとも命令?
「わたしの教会は、飲酒を禁じているんだけど、じゃあ、わたしは救われてないの?」と不安になる方もいらっしゃると思うので、もう少し、丁寧な説明を加えておく必要があると思います。
クリスチャンになったら、お酒は飲んではいけません。と牧師が言った場合に、それを勧告、すすめとして受け取ったのか。
それとも飲んではいけないという命令、救いの条件として受け取ったのか。
その人が、どう受け取ったかが重要です。
その人が信仰生活のすすめとして受け取ったならセーフですが、救いの条件として受け取ったなら完全にアウトだということです。
自分はアウトだ、という人は、改めて、福音を信じてください。
イエス・キリストは、わたしの罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、復活された。この福音だけを信じるなら、その瞬間に、あなたは救われています。
あとは、なんの心配もいりません。安心して、信仰生活を続けてください。
6.なぜイエス様はパリサイ派にあれほど厳しく言われたのか?
なぜ、イエス様は、パリサイ派に対して、あれほど厳しく言われたのでしょうか?
パリサイ派が主張していたことがらの多くは、どうでもいいようなことです。食事の前に手を洗い清めるかどうかとか、安息日に麦の穂をつまんで食べていいのかどうかとか…。
そのこと自体はどうでもいいこと。グレーゾーンです。
しかし、そのどうでもいいことを「守らなければならない」と言った瞬間に、完璧な神の救いの業を破壊するものになってしまうのです。
7.どこまでも聖書に忠実であること。
パリサイ派が口伝律法に陥っていたのは、聖書の真理が解らなくなっていたからです。
神の律法のまわりに、あまりにも多くの口伝律法がくっついてしまっていました。
では、多くの教会で、なぜ禁酒の命令が、教会の口伝律法になってしまったのでしょうか。
それも同様に、聖書の真理が解らなくなってしまっているからです。ここに問題の本質があります。
なぜ分からなくなってしまったかというと、聖書の文脈が分からなくなくなったからです。
聖書の文脈が分からなくなったのは、ヘブル的視点を失ったからです。
ヘブル的視点を失ってしまったのは、教会が異邦人中心になっていく中で、メシアニック・ジュー(ユダヤ人クリスチャン)を教会から追い出してしまったからです。
そのように、私は理解しています。
それゆえ、ヘブル的視点に立ち、聖書を文脈に沿って字義通りに読むことを第一に取り組んでいるわけです。
結局、何が聖書の教える本当の真理か、分からなくなってしまっているので、教会に異質な異端的な教えが入り込んできたときに、それを見分けることができないのです。
ですから、お酒を律法的に禁じている教会に対しては、注意する必要があります。
聖書の真理を見失って、律法主義におちいっているという根本的な問題が、さらに深刻な問題を引き起こす可能性があるからです。
飲酒そのものは、グレーゾーンの問題ですが、口伝律法や律法主義は、教会を、福音を、根本から破壊しかねないパン種なのだと、改めて考えさせられています。
「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。」マタイ福音書 18:6
※口伝律法によって、人々をつまずかせていた、パリサイ派に対するイエスの警告。
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