Q:聖書の中の引用って、アバウトすぎでは?
1.ヘブル的引用の作法があります!
ユダヤ人が聖書を引用する時、大きく三つの引用の仕方がありました。
①そのままの引用。
②聖書に記された歴史的事実を当てはめた形の引用。
例)マタイ2:15では、ヘロデ王の虐殺からのイエスの脱出が、出エジプトのひな型なのだと記しています。
③似た点を挙げて適用する形の引用。
例)マタイ2:17では、子供を捕囚に連行された母の生き別れの悲しみと、子を殺された母の悲しみが、子を失う悲しみという一点のみで共通しています。
現代において、引用の際に、出典の明示と正確さが求められるのとは違って、ずいぶん引用の幅があったことが分かります。
究極的に、聖書のあらゆる出来事は、イエス・キリストの十字架に集約され、さらに、将来回復される世界、千年王国へとつながっていきます。
そういう大きな視点をもって聖書を読むと、様々な形の引用の仕方にも、なるほどと、納得がいくと思います。
2.ギリシャ語訳聖書からの引用も!!
違いを生んでいる理由の一つに、ギリシャ語訳聖書の存在があります。
紀元前250年には、70人訳(セプチュアギンタ)と呼ばれる最初のギリシャ語訳の旧約聖書が誕生しています。
新約聖書はギリシャ語で描かれていますが、旧約聖書から引用する際に、当時すでに広く用いられていた、このギリシャ語訳の70人訳聖書からの引用している場合が多いのです。
翻訳ですから、ヘブル語聖書とは、どうしても細部で異なってくるのです。
3.多少のズレはものともしないのが聖書!!!
ヘブル的引用法にしても、70人訳からの引用も、私たちの現在の感覚からすると大雑把な印象は拭えません。
しかし、聖書の権威は主ご自身に基づくとするなら、このような引用を、神様ご自身が許容されているということです。
なぜそんなことが言えるのか、と思われるでしょうか?
そもそも、次元を越えた神の概念を人の言葉にする時点で限界があるのです。
聖書は、一つの概念を実に多様な言葉を用いて表現しています。対句法という技法の多用もその一つです。
聖書ほど多くの言語に訳された書物もありません。翻訳の限界がある中で、それでも聖書原典の力は、保たれています。
聖書は、最初から、翻訳や解釈で多少のズレが生じても問題ないような構造になっているということです。
これは、驚くべきことだと思います。
人の言葉をバラバラにされた主は、聖書が多様な言語に訳されることをもお見通しだったように感じます。
聖書を読んでいく上では、細かい解釈と同時に、聖書全体を大づかみに捕らえていく。そういう読み方も必要でしょう。
ヘブル的視点は、体を全体で一つと捉える、東洋医学的な考え方にも似ているように思います。
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