動画&まとめ ⑫マルコ9章後半「へりくだって主に仕えよう」福音を伝える者の責務
1. ふもとでの出来事 9:14~29
山上で栄光の姿を現されたイエス。しかし、麓で待っていたのは、子どもから悪霊を追い出せずに途方にくれる弟子たちの不信仰な姿でした。
当時の悪霊追い出しは、悪霊の名を聞き出すのが必須でしたから、口をきけなくする悪霊追い出しは最難度です。
ところがイエスは、弟子たちにはできたはずだと不信仰を嘆くのです。
実際、弟子たちは、主イエスの名に悪霊を追い出す権威があることを、派遣の際、身をもって体験していました。
イエスは、父親の信仰を確認します。イスラエルがメシアであるイエスを公式に拒絶して以降、癒しは、信仰ある者へのしるしとして行われていました。
父親が、メシアを信頼しきれなかった不信仰を悔い改め、助けを求めると、イエスは、悪霊を叱りつけ、子どもから追い出されました。
過去の体験や方法に囚われ、本質を見失っていた弟子たちにイエスは、ただ主に信頼する、信仰による祈りが求められていると教えられたのでした。
2. 弟子たちの無理解 9:30~50
受難の時は迫り、高まる緊張の中で、イエスは久々にガリラヤに戻ります。
しかし、道々弟子たちが論じ合っていたのは、誰が一番偉いか、でした。
弟子たちは、メシアであるイエスが王になる時は近いと感じていました。来るべき王国での地位が、彼らの最大の関心事だったのです。
しかし、弟子たちが理解していなかったのは、イスラエルがメシアを拒んだ時点で、王国の実現ははるかな未来に先延ばしになっていたこと。
そして、このこと自体、神の計画の一部であり、初臨のメシアは、受難の僕としてこられたということでした。
イエスは、御言葉を告げる者の使命の重さを弟子たちに語ります。
偽りを語り、人々を滅びに追いやる者は、ロバに挽かせる巨大な石臼を首にかけられて投げ込まれたほうがましであり、片手、片足、片目を失ってでも、滅びを避けなさい、と。
誇張法を用いて語られるのは、永遠の滅びがいかに恐ろしいものであり、なんとしてでも避けなければならないものかということです。罪に対する神の罰の厳格さを教えられます。
3. 御言葉を伝える者の責務
過去の経験や形式に囚われ(形式主義)、人間的な仲間意識で分け隔て(分派主義)していた弟子たちは、神の裁きの厳格さを理解していませんでした。
私の信仰、私の属する信仰共同体は、形ばかりになっていないか。信仰のみに立ち、へりくだって主に聞き従っているか、問われます。
一度信じて救われたなら、救いは二度と失われることはありません。だからこそ私たちは、裁きの厳しさを心にとめることができます。
福音を拒んだ者には永遠の滅びがあり、信じた者には弟子として福音を伝える責務があります。
人には重すぎるその責務に応えるために聖霊がおられます。神の義と愛を正しく伝えていきましょう。