Q:内なる人の変革とか、癒やしって、聖書的ですか? エリヤハウスを例に、根本的な問題点を考える
目次
Q:あなたの内なる人を変革しなさい、癒やしなさい、というプログラムに参加したのですが、なんだか、かえって苦しくて…。これって、ホントに聖書的ですか?!
1. ”内なる人” のルーツは?
聖書は、人を内と外とに区別しません。
聖書には、“内なる人”などという言葉も概念もありません。
心と体は、一体であり、分けられないものなのです。
人間を、内と外、精神と肉体と分け、精神は良いものだが、肉体は悪いものと考える。
これを、霊肉二元論と言いますが、そのルーツは、ギリシャ哲学にあります。
初期のキリスト教会を悩ませた、グノーシス派という異端があります。
グノーシス派は、まさにギリシャ哲学的な霊肉二元論に立ち、肉体が何をしようと、信者の心が汚れることはないと主張していました。
その結果、信者の中に、性的堕落や不信仰が蔓延する結果になったのです。
現代においては、心理療法とか、ヒーリング、スピリチュアルと呼ばれる世界で、“インナーチャイルド”や“インナーヒーリング”という言葉が広く使われています。
自分自身の中に、インナーチャイルドという子どもの自分がいる。
子どもの自分が抱えたままの心の傷を癒やすことで、インナーヒーリング、すなわち、内面の癒やしが起こる。
そういう様々な癒やしのプログラムがあります。
“内なる人の癒し”という癒やしのプログラムも、そういった流れから派生したものだと私は理解しています。
たくさんの聖句がちりばめられていて、一見すると、とても聖書的であるかのように見えます。
しかし、根本的な人間理解、信仰理解において、聖書とは、まったく異質なものなのです。
2. 強められる被害者意識
“内なる人の癒し”のために、“苦い根”などと呼ばれる、内面の傷を追いかけていく。
表現の仕方は、いろいろあるようですが、この手の癒やしのプログラムの基本は、共通しています。
自分の内面に、過去の体験から来る、癒やされないままの傷があって、それが、無意識のうちに、自分の今の生活、心理に悪影響を及ぼしている。
この根を捜し出して、癒やす、ということを延々と行っていくわけです。
多くの人が、感動し、癒やしのプログラムにはまっていくのは、そこには確かに、癒やされた、という体験や感覚が伴うからでしょう。
フタをしたまま放置していた、過去の出来事と向き合い、現在の視点から積極的な意味を与え、再解釈する。
それだけでも、癒やされることは、たくさんあるわけです。
これは、クリスチャンならずとも、多くの人が、成長の過程で自ずと体験することです。
自分自身が親になってはじめて、親の苦労や戸惑いが分かって、あの時の親の気持ちが理解できるようになった、というようなことです。
問題なのは、これが一つの癒やしのプログラムになると、果てしない傷探しが始まってしまうことです。
思春期のマスターベーションとか、幼い頃の親との関係、さらには、胎児の記憶にまで遡る…。きりがありません。
どこまでがいったい、本当の記憶なのか、判定不能な世界です。
さらに、“内なる人の癒し”のプログラムで問題なのは、ゆるす主体が、自分であることです。
「わたしは、この人(このこと)をゆるします」と、宣言する。
こうなると、むしろ、過去に縛られるようになってしまいます。
自分は加害者で、相手は被害者だ、という一方的な立場を、自分の主観だけで固定してしまうからです。
私たちの心を楽にしてくれるものの一つは、客観的な視点を身につけることです。
相手の立場を想像したり、自分自身に問題がなかったかと探る。そういう課程が、大切なのです。
しかし、“わたしは、ゆるします。”という視点だけでは、ゆるしたと言いつつ、被害者意識ばかりが強まってしまうことになります。
そこには、客観的にものごとを捕らえようという視点が欠落しているからです。
癒やしのプログラムによって、かえって、親や家族、周囲の人との関係が悪化してしまう人が多いというのも頷けます。
どうして、福音派の、信仰深いはずのクリスチャンが、あっさりと癒やしのプログラムにはまってしまうのか?
~してはならない、という律法主義的な厳格さの中で育てられ、たくさんのことにフタをして生きてきた。そんな人が多いように思います。
3. 守られようのない、集団での守秘義務
前述のプログラムでは、グループの中で、罪を告白しあうことが行われるとも聞きました。
グループ内には、守秘義務があるということですが、守秘義務とは、カウンセラーや聖職者といった一定の訓練を受けた人々が、個人的職責を担うことではじめて成立するものです。
そんな訓練も職責もない人々が集団での守秘義務を果たすなど、不可能です。
現にわたしは、癒やしのプログラムを熱心に行っている牧師自身が、参加者の信徒や牧師の個人情報を話している場面に何度か遭遇したことがあります。
「あの先生は、父親との間に葛藤を抱えていたんですよ」と、聞きもしないのに語り出すので、困惑しました。
「実は、あの人は、こんな問題を抱えている、非常にやっかいな人なんだ」と、普段は温厚な牧師が、激情露わに、机を蹴っ飛ばして語り出す場面に遭遇したこともあります。
その牧師自身の中に、増長された被害者意識が見受けられます。
その癒やしのプログラムで話した、あなたの個人情報は、本当に守られているのか?
大いに疑問です。
互いに秘密を語り合うという関係性は、一時的には、ここまでわかり合えた、という開放感や一体感をもたらすかもしれません。
しかしそれは、他で話されたらどうしようという不安や、弱みを握られているという縛りに、簡単に変わってしまうのです。
指導者が、これを悪用すれば、簡単にカルト化しかねません。非常な危険性をはらんでいます。
4. 聖書的ゆるしとは?
主イエスは、弟子たちに他者を何度でもゆるすように求めました。この場合の“ゆるし”とは、神に委ねることです。
すべての人は、神の目から見れば、等しく滅ぶべき罪人です。罪人の私に他者の罪を裁く資格はありません。
すべての罪と悪に対して、義の神が、公正な裁きを下されます。
その主に委ねよ、と聖書は命じているのです。
私たちは、自分の意思や努力で、ゆるすことはできません。
ゆるしの何よりの根拠は、私の罪はゆるされた、ということです。
本来、私が飲み干すべき神の怒りの杯を、主イエスが、十字架で飲み干してくださいました。
ただ十字架と復活の福音を信じた人に、永遠の命が約束され、その人の内に、聖霊が住まわれています。
この福音の恵みのゆえに私たちは、あらゆることに対して、主の御名によって、ゆるしを宣言することができるのです。
5. 聖書が約束する究極の癒やしとは?
この世には、様々な不条理も悪もあふれています。
ゆるしがたい出来事の被害者となることがあります。
信仰に立ったがゆえに受ける迫害は、その最たるものです。
聖書は、私たちに、究極的な解放の約束に目を向けるよう、促しています。
すなわち、主イエスが、王の王として再臨されるとき、世の悪のすべては裁かれ、地上から一掃され、世界は、再び、楽園に回復されるのです。
神の宇宙的回復という大きな計画に目をとめ、主を見上げつつ歩むとき、自ずと、私たちの個人的問題も解決されていくのを体験することができます。
過去の体験から親との葛藤を抱えていた人が、終末に視点をおき、神のご計画について、聖書の学びを深めていく中で、「いつのまにか、どうでもよくなりました」と言われていました。
主の御顔を仰ぎ見るとき、私自身を主の祝福から妨げていたあらゆるものが、剥ぎ取られていく。
聖書の癒しとは、こんなにもシンプルなのです。
6. 終末的希望に目をとめて
世の終わり、“主の大いなる恐ろしい日”すなわち、大艱難時代という裁きの時がきて、その最後に、イスラエルは、民族抹殺の危機に直面します。
エリヤの再来と言われた洗礼者ヨハネが告げた、ナザレのイエスこそ、自分たちイスラエルのメシア、救い主である、と、イスラエルが悔い改め、告白したとき。
その祈りに応えて、主イエスは、王の王として、地上に再臨されるのです。
完全に回復された新天新地においては、もはや死も悲しみ、叫び、苦しみもない、と、記されています。
聖書の癒やしとは、全人的癒やしであり、全世界の癒やしです。
ただ主が、それを完全に成し遂げられるのです。
マラキ書4章5~6節
「見よ。わたしは、【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
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