Q:ここは愛の教会です、と言われるのですが…
目次
Q:愛します!!と大歓迎されて、ある教会に通っていたのですが、なんだか足が遠ざかり気味で、指導者には、「恩知らず」と言われる始末で…。
1. 愛が、重荷に変わるとき
カルトの勧誘に、「ラブシャワー」と呼ばれるものがあります。
最初は大歓迎で迎え入れられて、プレゼントをくれたり、相談に乗ってもらったり、いろいろ親切にしてくれる。
ところが、正式にそこの会員になるとか、ある一線を越えた途端に、様々な義務がのしかかってくるのです。
程度の差こそあれ、教会においても、こういう体験をしている人は、少なくないようです。とても残念なことです。
2. あんなにしてあげたのに?
クリスチャンのAさんは、伝道には愛を注ぐしかないと言って、骨身を惜しみませんでした。
招いてはご馳走で迎え、お土産をもって訪問し、時には、車で旅行にまで連れて行ってくれるほどでした。
なんと親切な人だろうと近所でも評判でした。
そんなある日、Aさんと懇意にしていた求道者のBさんが、とあるトラブルでAさんとぶつかったのです。
その時、Aさんの口から出たのは、「あんなにしてあげたのに」という言葉でした。
Bさんは、驚きのあまり、声も出なかったそうです。
3. それは、本当に愛だった?
一言ですべてを破壊してしまう言葉があります。
「あんなにしてあげたのに」というAさんの言葉は、まさにそうです。
それは、愛ではなく、恩を売っていただけでした。
あれだけしてあげたのだから、これだけ返してもらって当然だと、Aさんは考えていたのです。
Bさんは、改めてAさんの行動を振り返りながら、心の隅で感じていた、いろいろな違和感に合点しました。
以前は喜んで応じていたAさんの招きが、最近、重たく感じて仕方がなかったこと。
Aさんが声をかければ、多くの人が集うけれど、なかなかそれ以上の関係には発展しないこと…。
結局、Aさんとの間にあるのは、義務、義理の関係でしかなかったことが、「あんなにしてあげたのに」というAさんの言葉によって明らかにされたのでした。
「愛を注ぐ」と言いながら、Aさんは、人々に恩を売り、義理を感じて集う人々に、さらに恩着せがましく、自分の下にとどまらせようとしていたのでした。
集い続けている人々の多くも、喜んでではなく、しぶしぶ従っているに過ぎませんでした。
突っ込んで人々に話を聞くと、いろんな不満が出てきました。
振り返ってみても、離れていった人々の多くは、なんとも言いがたい重苦しさを、Aさんに対して抱えていたのだと、Bさんは感じました。
Bさんは最近、Aさんが憐れで仕方ないそうです。常に見返りを求めて、「してあげている」Aさんは、本当の愛というものを知っているのだろうかと…。
4. 見返りを求めないのが本当の愛
親から子への愛が尊いのは、それが、見返りを求めない愛だからです。
おしめをかえたり、おっぱいを飲ませたり、あやしたり、多くの親は夢中で、あるいは必死に、子どもの世話をしているわけです。
いちいち、この子は、どれほど自分に返してくれるだろう? などと考えていたら、決してできないことでしょう。
子育てを通して身にしみて教えられるのは、愛とは、無償の行為なのだということです。
5. 愛するためには、愛されること
誰もが無力な赤ん坊として生まれてきます。
これはとても大切なことです。
人はまず、無条件に愛されることによって、愛することを覚えていくのです。
見返りを求めない愛を知らない人は、ひょっとすると、十分に愛された経験のない人なのかもしれません。
Bさんも、そんなことを思うと、Aさんに対して、なんとも言えない複雑な思いを抱かざるをえないそうです。
じゃあ、十分に愛されなかった不幸な生い立ちの人は、愛することができないのか。
そんなことはありません。
むしろ、愛が不十分だったという思いがあるからこそ、人を愛することを積極的に選び、身につけていく人もいます。
最大の希望は、天地を造られた神様は、ひとり子を犠牲にするほどに、私たちを愛してくださっているということです。
主イエス・キリストは、私の罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、死を打ち破って復活されました。
ここに、完全な愛があります。
6. 愛がスローガンの教会って?
本当の愛は、私たちが頑張って実現できるものではありません。
愛は、スローガンに掲げられるようなことではありません。
私は、愛に満ちた人間だ、私たちは、愛に満ちた共同体だ、などと自称している人がいたら、むしろ逆を疑うべきだと思います。
ではどうしたらいいのか?
真実の愛の道は、すでに与えられています。
ただ信じて救われる福音が、すべての人に差し出されています。
そして、福音を信じて救われた人の内に、聖霊が住まわれ、愛を育んでいってくれるのです。
ガラテヤ5:22~23に、こうあります。
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」と。
親の子への愛は、尊い無償の愛ですが、完全な愛ではありません。たくさんの欠けをも抱えています。
多くの人は、自分自身が親になったときに、親の愛を知ると言います。
親としての自分の不完全さを思い知らされて、初めて味わう親の愛があります。
あなたが、神の愛を知りたいなら、自分の罪を思い知る必要があります。
クリスチャンの霊的成長、信仰の成長とは、自分の罪深さを、これでもかというほど味わい知らされていく、課程そのものにほかなりません。
どうしようもない、罪の領域を、ただ御霊に委ねていく。
その歩みの中で、キリストの愛が私を満たし、喜びの内に、私を変えていってくださるのです。