十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

Q:一対一の弟子訓練って、聖書的ですか?

 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 

Q:一対一で行う、ある弟子訓練のプログラムを受けていたのですが、なんだか苦しく感じてしまって。どうしてなのかなと…

1.確かに大切な、弟子訓練

主イエスは、昇天前に、「すべての人をわたしの弟子としなさい」(マタ28:19)と命じられました。

福音を信じたすべての人は、キリストの弟子とされており、「主と同じ形に姿を変えられて」いくのです(Ⅱコリ3:16)。

キリストの弟子として訓練され、成長していくことは、すべてのクリスチャンに求められている大切な使命だと言えます。

2.弟子訓練が悪用されたケースも

私自身も、とある教会が実践している一対一の弟子訓練を、その教材を用いて行っていたことがあります。

その学びの中で、信仰告白に導かれた方もいらっしゃいますし、決して悪いものではなかったと思うのですが、もう長いこと、その教材は、埃をかぶったままです。

 

改めて問い直すことを促されたのは、カルト化してしまったある教会でも、この一対一の弟子訓練を採用していたと、知ってからのことでした。

その教会には、指導者の権威の絶対化、情報の囲い込み、様々なハラスメント、金銭問題など、まさにカルトとしか言いようのない状況がそろっていますから、採用していた弟子訓練プログラム自体に問題があったとは、言えません。

しかし、一対一という弟子訓練の特性が悪用されていたことは、否定できないとも感じています。

 

キリストの弟子として育まれることの大切さは、聖書に明らかです。

しかし、弟子訓練という言葉自体にに、拒否反応を示すクリスチャンは少なくありません。

背景には、前述のように、弟子訓練が悪用されたケースが確かにあるのです。

3.一対一が理想の弟子訓練?

「一対一弟子訓練」とうたっている以外の弟子訓練の多くも、「教える人 ➡ 教わる人」という、一対一の関係を強調している点では、共通しているようです。

聖書を根拠に、一対一が理想的だと主張されているわけですが、本当にそうなのでしょうか?

 

一対一弟子訓練を理想とする根拠の一つが、主イエスが、70人の弟子たちを二人一組で派遣したことです(ルカ10:1)。

しかし、これは伝道のための派遣です。メシアの証人として二人が必要だったのであって、一人が一人を訓練したわけではありません。

主イエスが、弟子の誰かと明らかに一対一で弟子訓練されていると、断言できる状況もありません。

主イエスは、12弟子に対する訓練を中心に置かれました。

時には、その中心の3人(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)に焦点を当て、あるいは、対象を広げて70人を派遣されたこともあります。

共通しているのは、複数の弟子たちを訓練されているという点です。

リーダー格のペテロに語り掛けている場面でも、他の弟子たちが一緒にいました。

主イエスとペテロのやりとりを見ながら、他の弟子たちも同時に学んでいるのです。

はっきり、イエスから二人きりで教えを受けていると確認できる場面は、あのサマリアの女との井戸端での会話くらいです。(ヨハネ4:1~42)

 

使徒たちについてはどうでしょうか? パウロがテモテを弟子訓練した、というようなことも言われます。

しかし、その訓練が一対一でなされていたという、はっきりした状況は見つけられませんでした。

使徒の働きでも、むしろ際立ったのは、やはり、複数による弟子訓練です。

最初の伝道旅行では、パウロとバルナバが、若いマルコを同伴しています。この場合は、一人に対して、複数の指導者です。

パウロが、テモテやテトスと共に、彼らを指導しながら旅をしたことは、書簡からも伺えますが、使徒の働きの中で、二人きりという状況は稀です。

多くの場面で、著者のルカも同行していましたし、むしろ、3人以上で行動していることの方が多いと言えます。

4.複数の指導者が、教会の基本

パウロは、訪問した町で伝道し、基本的な教理を一通り聖書から解き明かしました。

そして、複数の長老を地域教会の指導者に指名し、委ねると、次の町へと旅立って行きました。

このように、複数の指導者による教会形成こそ、聖書が教える基本です。

 

これらのことから結論づけると、複数の指導者から、複数の人々への弟子訓練こそ、聖書的であると言えます。

一対一の弟子訓練を聖書的に裏付ける根拠はない、と言わざるを得ません。

5.主にある兄弟姉妹の関係の中で

主イエスは、弟子たちに、「先生、父、師(教師)」と呼ばれてはならない、と告げられました(マタ23:8~10)。

これはそういう呼び方自体を禁じているのではありません。もしそうなら、父親にお父さんと呼びかけることもできなくなってしまいます。

この箇所での「先生、父、師」は、いずれも、当時のユダヤ教の律法教師だったラビの呼称です。

「先生、父、師」と呼ばれていたラビは、実父以上に尊ぶべきとされ、私生活や結婚相手に至るまで、弟子を支配しました。

そのようなあり方は、キリストの弟子にはふさわしくないということなのです。

 

天国の地位を言い争った弟子たちを、主イエスは、厳しく咎められ、へりくだることを求められました。

弟子の歩みを簡単に狂わせるのが支配欲です。

だからこそ主は、複数によるリーダーシップと弟子訓練を、教会組織の基本として据えられたのではないでしょうか。

状況の中で、一対一という場面はもちろんあるでしょうが、それを弟子訓練の基本にしてしまうなら、「支配 ➡ 被支配」という歪みを、簡単に生じかねないのではないかと懸念します。

一対一という特殊な状況を固定化させるべきではないと思います。

 

「後のものが先になる」のが、信仰者の歩みでもあります。

教える者が逆に教えられる。それは、多くのクリスチャンが体験させられていることでしょう。

何より、教会は最初から共同体として誕生させられました。

主にある兄弟姉妹として、お互いの関係性の中で育まれていくことが、主イエスが理想とされる弟子訓練の在り方だと考えます。

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