十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

Q:クリスチャンって、不自由じゃない? 自由の鍵が、真理に基づく聖書研究。

2020/03/24
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 

Q:クリスチャンって、なんだか、みんな同じような雰囲気があって、生き方も窮屈で、不自由そうだなぁ、って思えてならないのですが…?!

1.そこに自由がないならば…

クリスチャンは、窮屈そうだ、なんてイメージを持たれるなら、とても残念なことです。

主イエスは、「真理は、あなたがたを自由にする。ヨハネ8:32」と宣言されました。生き生きと、喜びあふれているのが、本来のクリスチャンの姿のはずです。

本当に真理に立っている教会には、一人一人が多様な個性を生き生きと発揮しながらも、不思議な一致があります。

 

一方、キリスト教系の異端、カルトと呼ばれる宗教団体の人々に接していると、同じような雰囲気をまとっているのを感じます。

それは、指導者や組織の要求に応えることが一番とされている共同体の特徴だと思います。カルト化した教会においても共通した特徴があるようです。

画一的で、表面的な一致の裏で、心に平安はなく、いつも何かに脅かされ、縛られているのです。

 

2.ユダヤ人を蝕んでいた律法主義

「○○してはダメ」「○○しなさい」と、信仰者から自由を奪う最たるものが、「口伝律法」です。

これは、神が与えた法ではなく、人が勝手に付け加えた、人の作ったルールです。

神がモーセを通して、イスラエルに与えられた「律法」は、民を正しく導くために与えた、恵みの法でした。主イエスは、神の「律法」は完全に守られました。

一方で、「口伝律法」は、完全に拒否されました。そのために、「口伝律法」を尊ぶ、パリサイ派や律法学者たち、律法主義者からの猛攻撃にさらされたのです。

 

特に争点となったのは、安息日をめぐる「口伝律法」でした。

「安息日には働いてはならない」という「律法」そのものは、十戒の一つであり、イスラエルに、神の選びの民のしるしとして定められた大切なものです。

安息日によって、イスラエルは神の守りを実感し、主への信頼と感謝を深めました。

しかし、この安息日に、様々な「口伝律法」が加わって、人々の生活をがんじがらめに縛りつけていたのです。

パリサイ派や律法学者は、弟子たちが安息日に麦を摘まんだり、イエスが障害を癒やされたことまで、働いた、と言って非難しました。

これに対してイエスは、「安息日は人のために定められたのであって、人が安息日のためにあるのではない(マルコ2:27)」と断言されています。

 

主イエスが、「重荷を負う者は私のところに来なさい(マタ11:28)」と言われた「重荷」は、これらの「口伝律法」のことです。

民に重荷を負わせ、つまずかせる律法主義者たちに対して、主イエスは、「大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよい(マタ18:6)」とまで言われています。

「口伝律法」は、神の教えをゆがめ、恵みを苦しみに変えてしまうからです。

当時の律法の教師(ラビ)たちは、「先生、父、師」と褒めそやされ、弟子たちの結婚や仕事など、私生活に至るまで介入し、徹底的な従属関係を築き上げていました。

救いの道を閉ざし、人々を支配し、滅びに導く偽教師の責任は重大なのです。

 

3.教会における口伝律法は?

クリスチャンから喜びを奪ってしまう最悪のものは、教会における「口伝律法」です。

聖書には書かれていないのに、「○○してはならない」「○○しなさい」と、あたかも神の命令のように言われていることが、少なからずあります。

「聖日厳守・日曜日の礼拝は、絶対に守らなければならない」「献金は、収入の十分の一を献げなければならない」
「指導者の言うことは聞かなければならない。批判してはならない」「お酒は絶対に飲んではならない」…etc。

各々の解説は、ここでは控えますが、判断する一つの基準は、自分自身の中に喜びがあるか。心から喜んでやっているかということです。

 

4.キリスト者の自由を土台に

「真理があなたがたを自由にする(ヨハ8:32)」 主イエスの言葉です。

イスラエルの人々は、知らず知らずのうちに、口伝律法の奴隷になっていました。

聖書が記す真理を理解することが、私たちに真実の自由をもたらしてくれます。

自由をもたらす鍵は、聖書研究です。正しい理解に基づく体系的な学びが欠かせません。

 

聖書が全体を通して、繰り返し教えるのは、神の約束に基づく一方的な恵みの大きさです。

一つの約束すら守り通せない、どうしようもない罪人である私たちのために、主ご自身が、犠牲となって、救いの道を開かれた。

それが福音であり、救いはただ、信じて恵みを受け取るだけのことなのです。

クリスチャンとしての歩みのすべては、与えられた途方もない恵みに対する、喜びと感謝の応答です。義務感や義理に駆られて行うものではありません。

 

自発的に、喜んで行うのが奉仕の原則です。そのためには、聖書の学びが必須です。

学びを深め、神の約束の確かさを知り、主の恵みを味わっていく中で、はじめて喜びはあふれてくるからです。

作り笑いはできますが、喜びは、私たちが、意識して出せる感情ではありません。それは、文字通り、私たちの内奥からあふれ出て来るものなのです。

 

5.クリスチャンの喜びの源泉

主イエスは、弟子たちの迫害を予告しながら、「喜びなさい、喜びおどりなさい(マタ5:12)」と命じられました。

使徒パウロも、「いつも主にあって喜びなさい(ピリ4:4)」と繰り返しています。

なぜなら、主は生きておられ、再び来られるからです。

 

すべての悪は裁かれ、主イエスご自身が、王の王として、世界のすべてを支配される時が来ます。

主を信じたすべての人は、罪なき栄光の体を与えられて、永遠に、尽きない喜びの内に生きるのです。

クリスチャンのゴールは決まっていて、必ずそこに到達することが約束されています。神の約束は絶対です。

 

クリスチャンの喜びの源泉は、必ず実現される神の約束です。

知りたいという自発的な動機から始まって、聖書の理解を深め、真理と自由の御言葉を味わっていく。

学びが深まるほどに、湧き上がる喜びがあるのです。

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