Q:聖日厳守は、主の命令? 礼拝の本質を考える
目次
Q:クリスチャンは、日曜日には絶対、礼拝を守らなければならない、と言われてきたのですが、新型コロナの問題に、どうしたものか頭を抱えています。
1.相次ぐ礼拝の休止
新型コロナウイルスの大流行の兆しの中で、日曜の礼拝やミサを休止する、教団、教派、教会が相次いでいます。
苦渋の決断です。しかし、新型ウイルスの感染拡大防止ということを考えると、今できることはこれしかないと思います。
私たち、鹿追教会でも、当面、礼拝をライブ配信のみで行うことを決めました。
隣人愛という観点からも、教会が集団感染を引き起こすような事態は、なんとしても避けなければならないことでしょう。
韓国では、新天地というカルト教会の礼拝を通して、大規模な集団感染が発生しています。
人々の命よりも、自分たちの宗教行事が重要なのか、と問われれば、答えようがないのではないでしょうか…。
目の前に迫った危機に、多くの教会が、礼拝休止という、かつてない決断を余儀なくされているわけですが、歴史を遡ると、同様の出来事がありました。
第一次世界大戦中に世界を席巻したスペイン風邪(新型インフルエンザ)の時には、アメリカの諸州で、知事の要請を受けて、教会の礼拝を休止したという事例があります。
熱心なキリスト教国であった当時のアメリカで行われた決断には驚かされます。
2.日曜の礼拝の聖書的根拠は?
伝統的に、多くの教団教派教会が、日曜日に礼拝を守ってきました。
週の最初の日である日曜日は、主イエスの復活の日であり、教会誕生のペンテコステの日でもあります。
使徒の働き(使徒行伝)にも、小アジアのトロアスの町で、週の初めの日に集っていたという記述があります。
日曜日が、礼拝をささげるのにふさわしい日であるのは確かです。
では、礼拝は、日曜日でなければならないのでしょうか。
3.礼拝は土曜日(安息日)にすべき?
礼拝は、土曜日にするべきだと主張する人々もいて、モーセの律法に定められた週の7日目の「安息日(あんそくび)」をその根拠としています。
主イエスも、また使徒の時代にも、安息日に会堂に集う姿が記されています。
しかし、教会の礼拝を安息日にしなさいとは、聖書にはどこにも記されていません。
安息日は、あくまでも律法の規定であり、律法はイスラエルへの命令です。異邦人にはそもそも無関係です。
律法は、イスラエルを導く育む養育係であり、その役割は、主イエスが、十字架で贖いを成し遂げられた時に完全に終わりました。(ガラテヤ3:24~25)
律法の中心だった食物規定の廃棄は、主ご自身によって、使徒ペテロに三度も告げられています。(使徒10:9~16)
4.集まることは、やめないで
主イエスの十字架と復活以降、今の教会時代には、礼拝の日について縛るものはありません。
エペソのツラノ講堂のように毎日でもよければ、日曜日でも土曜日でもいいのです。
もはや曜日は問題ではありません。
ただ、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで(ヘブル10:25)」とあります。
定期的に集うことは、この時代のすべてのクリスチャンに求められた、大切なことです。
教会は、そもそも一つの共同体として始まりました。
クリスチャンは、互いの顔を合わせ、励まし合い、祈りあい、共に学びを深めていくことを求められています。
5.ネットで十分?
ライブ配信を行う教会は増えています。鹿追教会もその一つです。
遠方で、また海外からも、参加されている方がいらして、恵みを共にしています。
では、ライブ配信があれば、それで十分なのでしょうか?
「いっしょに集まることをやめたりしない」ことは、やはり大切です。
顔と顔を合わせ、共に食し、祈り合う。共同体としての交わりなくしては、そこは教会とは言えないのです。
「2人、3人が、主の名によって集うところにわたしもいる(マタ18:20)」と主イエスは言われました。
しかし、これはキリストの証人として必要な数のことであって、教会のことではありません。
定期的に集えないという方には、健康のことや、住環境のことなど、様々なご事情があるでしょう。
それでもどこかで、定期的に、他のクリスチャンと顔と顔とを合わせて交わる場を持っていただきたいと願います。
お近くに聖書フォーラムがあれば、ぜひそこにつながっていただければ、ライブ配信では得られない恵みを与えられることと思います。
6.礼拝の本質を考えよう!!!
礼拝で何より大切なことは、福音が宣言され、御言葉が正しく解き明かされ、主の栄光が讃えられることです。
使徒の働きを読んで、よく分かるのは、ペテロもパウロも、使徒たちの働きの中心には常に、御言葉の解き明かしがあったことです。
教会初となったペテロの説教では、マラキ書の預言の解き明かしから、世の終わりへと続く、教会時代の始まりが宣言されています。
パウロ最大の伝道となったエペソのツラノ講堂では、あしかけ3年、連日聖書の講解が行われました。
こうして、啓示された神のご計画の全貌が聖書から解き明かされていったのです。
賛美や祈り、聖餐など、礼拝は、様々な要素から成り立っていて、どれもが大切なことですが、その中心には常に、聖書の学びがあるべきです。
日本語の聖書サイトで最大のアクセス数があるのが、聖書の学びに特化したメッセージステーションだそうです。
自発的な聖書研究のグループとして、各地に聖書フォーラムが次々と誕生しています。
地方の小さな教会である鹿追教会にも、聖書を学びたいと訪れるクリスチャンと、ノンクリスチャンの人々がいます。
自発的に集い、聖書を学びあう、大小さまざまのグループが、世界中のそこかしこに起こってきています。
聖書の解き明かしを中心に据えた、集会や礼拝こそ、本来あるべき姿なのだと、体験的にも確認させられています。
無数のサイトが乱立する今、ただネットを利用したからと行って、人が集まるわけではありません。
私たち鹿追教会のライブ配信も、視聴が数名から始まって、ようやく20名前後というところです。
それでも着実に、集い、祈り合うつながりが与えられています。
開拓間もない小さな教会にとって、大きな励ましを与えられる、本当に感謝なことです。
御言葉を正しく分かりやすく伝えようと苦心してきた、ただその結果として今があるのだと教えられています。
ライブ配信に参加されている方々の中から、新たな集いが誕生すれば、何より嬉しいことだと祈り願っています。
新型肺炎をめぐる騒動で改めて突きつけられたのは、私たちは、何のために礼拝に集うのかというその本質でした。
たとえ今は、顔と顔を合わせて集うことが叶わなくとも、聖書の学びを深めていくところに、絶えることのない祝福が注がれ続けているのを感じています。
御言葉の糧をこそ求めて行きましょう。
この時をも、主が益として働かせてくださって、キリストの体の一部として、互いのつながりを強めていく機会とされていきますように。
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連日新型コロナウイルスの事で大変とは思いますが、クラスターが発生しないように十分の換気や手洗い消毒としっかり予防して体調に気をつけてください。今のところ北海道感染者は段々少なくなってきてると思います。でも気は抜けません。これから爆発的な感染するのか、終息に向かうかもまだわからないです。なのでみんなで乗り切りましょ!
ありがとうございます。
北海道は落ち着いてきていますね。十勝も感染者は1名にとどまっています。緊急事態宣言は、絶妙のタイミングだったのだと思います。
3月中は、礼拝もライブ配信のみですが、4月から、再開できたら、と考えています。
先日は、zoomのビデオ会議で、教会の祈祷会を持ちました。
長丁場になるのでしょうから。基本的なことに気をつけつつ、いかに交わりを保っていくかが、課題ですね。
乗り切っていきましょう!! 主のご計画に期待して。