聖書の真理 上から見るか、横から見るか?
1.どうしてそんなに違うのか?
私が神学校時代に、一つ悟らされたこと。
それは、神学者も牧師もみんな言っていることが違うのだから、自分の信じることを語っていくしかない、ということでした。
自分が間違えたなら主が正してくださるだろう、という根拠のない思いだけを握りしめて卒業したのを、よく覚えています。
もとより、自由主義神学のただ中にあって、聖書も人の書いたものに過ぎず、間違いも時代の限界もあると考えていましたから、唯一の真理など聖書からは引き出しようがなかったのです。
聖書を神の言葉と信じるよう導かれ、ヘブル的視点による解釈に出会い、聖書の驚くほどの統一性と整合性に、初めて気づかされたのでした。
聖書全体を貫く、大きな柱を理解できるようになったことは、何より大きな恵みでした。
その一方で、解釈の細かいところでは、やはり、人により、揺らぎや幅があることも実感させられています。
ヘブル的視点からのディスペンセーション神学に立っている人同士でも、細部ほど、違いが際だったりするのです。
しかし、神学というものの本質を考えるなら、違いが生じてくるのは、当然のことだと理解しています。
2.そもそも、神学とは?
聖書に記された教えを、どう捕らえ、理解していくか、その筋道を示すのが神学だと言えます。
神学とは、言ってみれば、絵を描くことに似ています。
絵を描くということは、立体を、平面上に描きおこすこと。
三次元世界のものを、二次元の世界で表現する、そこには、越えがたい困難な壁があります。
たとえば、象の正面図を、どんなに精密に描いても、それだけでは、伝えられる情報は、限られています。
後ろ、横、下、上。様々な視点からの絵が組み合わさって、象という全体像が見えてくるのです。
また、ただ精密に描くだけでは、伝えられないものもあります。
象という巨大な動物の迫力、息づかい、性質。どうやったら、目に見えないものまでも伝えられるか。
その難題に取り組み続けているのが、画家なのです。
その姿は、神学にも重なります。
同じ象が対象でも、描かれた絵は、みんな違うように、神学的説明も、人によって、説明の仕方には違いがあります。それは当然のことです。
聖書を見ても、ペテロの神学とパウロの神学は違います。ヨハネの神学とルカの神学も違います。それは、避けがたい違いなのです。
次元を超越した超自然的な神の業を、この次元の人間の言葉で表現する以上、どうしたって無理があります。
しかし、神は、その無理を重々承知の上で、聖書を記されたのではないでしょうか。
私はそこに、途方もない神の意図を感じます。
旧新約聖書全66巻には、様々な種類の書物が収められています。
歴史書、預言書、詩歌、格言集、狂言からラブソングまで。その表現の仕方も様々です。
真理は一つですが、その真理は、人間の、一つの視点、一つの言葉だけで説明できるものではありません。
多角的な視点と、多様な表現が必要不可欠なのです。
イエスの生涯を描いた福音書は、4人の記者が、それぞれの視点から証言を記したものです。
複数の視点から、立体的に浮かび上がる主イエスの姿があります。
三次元の物質で、三次元の物を作る場合には、精密さは重要です。
しかし、絵を描くのは、時計を組み立てるような訳にはいきません。
次元を越えた神の真実を伝えるためには、人間が持ちうるあらゆる感覚、思考を総動員するものが必要だった。それが、聖書なのだと思います。
聖書は、人の手によって記され、神がその内容を保証されているものです。
人間が理解するための、人間の心に届くべき言葉だからこそ、神はあえて、人間に書かせたのしょう。
行間から伝わる著者の息づかいが、感動が、私たちの理解を助けてくれます。
3.その引用は不正確? 驚くべき聖書の視点!!
新約聖書には、旧約聖書の引用がたくさんありますが、ざっくりしています。
直接の引用とされている箇所でも、見比べるとけっこう違っていたりします。学校の試験ならマイナスです。
なぜ、正確な引用ができないのか。
大きな理由は、そもそも書かれた言葉が違うからです。
旧約聖書の原語はヘブル語(一部アラム語)で、新約聖書の原語はギリシャ語です。
翻訳という作業を挟まなければならないのですから、どうしたって、正確な引用にはなりません。
驚くことに、聖書がそれを許容しているのです。
聖書ほど、多様な言語に訳されている聖典はありませんが、最初の翻訳は、紀元前からありました。
七十人訳(セプタギンタ)と呼ばれるギリシャ語訳の旧約聖書です。
新約聖書の引用の多くは、七十人訳聖書からのものだと言われます。
聖書そのものが翻訳を容認している。この事実に驚愕します。
イスラム教は、アラビア語のコーランしか聖典として認めていません。そうなるのが、人間的に考えれば普通です。
聖書は、最初から、翻訳されることを想定して書かれていたのではないか。
それは、すさまじいことだと思います。
聖書に多用される文学表現に、「対句法」があります。一つのことを、言葉を少しずつ変えて記すのが「対句法」です。
「AはBだ」「A`はB`だ」という形です。
「私の心はおごらず。私の目は高ぶりません(詩131:1)」という具合です。
一つの対象を、角度や時を変えながら何度も描く画家のように。
対句法という表現は、一つの真理に多方面から光を当て、理解の深まりとイメージの広がりをもたらしてくれます。
千数百年もの期間に、数十人の手によって、複数の言語により、様々な表現方法で記された。
この旧新約聖書全66巻自体が、壮大な対句法になっているとも言えます。
次元を越えた真理を、限られた人間の言葉でいかに伝えるか。
この難題に、聖書以上に力強く、的確に、壮大なスケールで応えている書物は、ありません。
聖書全体を読み通していく時、多方面から当てられた光によって、浮かび上がってくる一つの真理があるのです。
4.真理は一つ。表現は多様。
目に見える確かなものにしがみつくのが、人間です。
聖書理解においても同様です。
神学的な説明の一つに、まるで聖書そのものであるかのようにしがみついてしまうなら、どうでしょう。
この絵だけが真実の象の姿なんだと、一枚の正面図だけにこだわってしまうなら?
岩のような腰や柱のような足という、象の後ろ姿に示された真実が抜け落ちてしまいます。
象に角をつけたら嘘になってしまいますが、どう描くかには、多様な表現があることを認めましょう。
視点の違いも重要です。
山全体を概観して描くのと、一本の木を描くのとでは、当然、描き方も違ってきます。
それは、聖書理解においても、求められる大切な態度だと思います。
どんなに優れた神学的説明であっても、その一つだけで、すべてを語り尽くすことはできません。当然のことです。
しかし、真理は一つであることを確認した上で、お互いの視点の違いを分かち合うことができるなら、おおいに恵まれることでしょう。
全66巻からなる聖書は、まさに、そのような作業と同意の上に一つにまとめられている、実に不思議な書物です。
「不思議」とも呼ばれる神こそ、聖書の総合編纂者なのだと教えられます。
人間の限界を認め、神の言葉に信頼しましょう。
譲ってはならない大切なことは、聖書に繰り返し記されています。
人の罪。信仰と恵みによる救い。神の約束の確かさ。聖書全体を貫く軸を、まずはしっかりと身につけましょう。
下手でもいい。最初は、聖書全体をざっくりと描けるように。自分の言葉で説明できることをまず目指しましょう。
十勝聖書フォーラム鹿追キリスト教会での聖書の学びは、そのような視点の上に行っています。
さらに詳しい学びを深めたい方には、メッセージステーションがあり、聖書塾があり、フルクテンバウムセミナーがあります。
聖書フォーラムのリーダーのそれぞれのメッセージも、おすすめです。
素晴らしい学びの機会が揃っています。おおいに用いていただけたら、と願います。