母性的教会とカナンの神と偶像礼拝
1.聖書が記録する女神信仰
約束の地に定住したイスラエルの民が惑わされたのが、カナンの偶像の神々でした。
中でもイスラエルに深刻な悪影響を及ぼしたのが、豊穣神である女神の存在です。
聖書には、アシラ、アシュタロテという女神の名が何度か記されています。
命を産む女性性への崇拝と、豊穣の祈願が女神礼拝のルーツと言われます。
女神は男神と対になっています。女神アシュタロテは、男神バアルが対でしたが、実際に民衆に人気があったのは、女神のようです。
対になった男神よりも、女神の方が人気がある。
世界各地に根強くある女神信仰からも、同様の傾向が見られます。
豊穣神の祭儀には、多くの場合性的儀式が伴っていました。
カナンの祭りに行ったユダの目当ては遊女でした(創38章)。
イスラエルの民が神殿娼婦・神殿男娼になることも律法は厳しく禁じています(申23:18)。
性的儀式を行えば、当然の結果として子どもができます。生まれた子を火に捧げる人身供養も、盛んに行われていたようです。
子どもに火の中を通らせてはならないという警告が、聖書に繰り返されています(レビ18:21他)。
性的儀式に対する、律法の数々の禁止命令から、約束の地、カナンの偶像礼拝の現状が生々しく伝わってきます。
性的儀式を伴う女神信仰が、イスラエルにも悪影響を及ぼしていたことがよく分かります。
新約聖書では、使徒の時代に、エペソの女神アルテミス信仰を巡って起こったキリスト者の迫害が記されています(使徒19章)。
多数の乳房を抱えた女神アルテミスへの信仰。そこにもやはり、神殿娼婦がいて、様々な性的儀式が伴っていました。
2.マリア崇敬のルーツは女神礼拝?!
カトリックにおいて、聖母マリアは、時にイエス以上の存在感を放っています。
カトリック信者は、決してマリアを崇拝しているのではない、崇敬だと言われます。
しかし、マリアの名による祈りや、聖母像には、違和感を禁じ得ません。
聖書は、マリアをとりなし手として祈ることを教えていません。
受胎告知で表したマリアの信仰は、信者の模範とすべきものでしょう。
一方、マリアは、メシアとしてのイエスの活動をやめさせようとしたこともありました(マルコ3:21,31)。
間違いなく、マリアも、罪人の一人にすぎなかったことを、聖書は、はっきりと記録しています。
ある人が、メシアを産んだ母マリアを讃え、祝福した時、イエスは、それをはっきりと拒んでいます(ルカ11:27)。
ペンテコステを最後に、イエスの母マリアは、聖書に一切登場しません。
聖書は明らかに、マリアを特別視することを避けています。
聖書にないことを正当化しようとすれば、別な権威を持ち出さざるを得ません。
使徒ペテロから続く、教会指導者の権威が法王にあると主張し、カトリックという組織の教えや伝統に、聖書と同等かそれ以上の権威を認める。それは、当然の帰結だと思います。
聖書にはないマリア崇敬のルーツは、ヨーロッパの土着の宗教の月神信仰、女神信仰だと言われます。
ヨーロッパに根強くあった女神信仰が、マリアに形を変えて教会に取り入れられていったという説明には、説得力があります。
イスラエルに対する最大の誘惑が、偶像神、とりわけ、アシタロテなどの女神信仰であったように、教会も同様の誘惑にさらされています。
3.現代の母性社会における女神
女神像の多くは、女性の性的特徴を極端なほどに強調しており、女神信仰は、性的儀式など、性的寛容を伴います。
性行為を伴う儀式は、当然の結果として妊娠をもたらし、必然的に、産まれてくる子の“処分”という残酷な結果に至ります。
性的に寛容だったと言われる日本の江戸時代には、堕胎や子殺し、人身売買が常態化していました。
性的寛容と、命の軽視は、一つのものです。姥捨ても、かつての日本の悪習でした。
母性社会であると言われる日本の今は、どうなっているでしょうか。
小学生向けの漫画雑誌にまで、当たり前のように性行為が描かれる日本の現状があります。
かつての“援助交際”は、ママ活、パパ活と名前を変え、性を売り買いすることが、手軽なお小遣い稼ぎとして広く、一般的に行われています。
一方で、数十万という妊娠中絶が行われています。
聖書には、胎内に宿った瞬間から、人は命あるものと明記されています。聖書に従えば、堕胎は殺人です。
出生前診断により、染色体異常があると告げられた子どもの98%が、生まれることなく、その命を奪われています。
堕胎率100%と言われるアイスランドのような状況に、日本も陥っていくのでしょうか。
日本の社会のあちこちで、極端に女性性を強調したキャラクターが、漫画やアニメの枠を超えて、一般的にも用いられるようになってきています。
まさに、現代日本の女神像と言えるかもしれません。
性的儀式と、おびただしい幼児犠牲を行ったカナンと、性行為が蔓延し、多くの胎児の命を奪っている日本の現状とが、重なります。
4.日本の教会で強調される母性性
“聖書のみ”の原則に立つプロテスタント教会には、もちろん、マリア像もマリア崇敬もありません。
しかし、愛の神だけを強調することは、どうなのでしょうか?
無条件の愛、赦し、神の憐れみ。もちろん、とても重要なことですが、それしか語らないなら、神のご性質の一面しか言い表していません。
神は、“愛の神”であると同時に、“義の神”であり、約束を絶対に果たされる方です。
イスラエルが律法の遵守を求められたように、クリスチャンには、キリストの愛の律法に生きることを求められています。
救い主として十字架で愛の業を全うされた主イエスは、裁き主として再び地上に戻って来られます。
カルト的教会に共通するのは、愛の強調と強い支配です。
それは、利己的な人間の母性が、子どもへの無条件の愛と同時に、無制限の支配をもたらすことにもつながって見えます。
私が、警鐘をならすべきだと促されていることがあります。
それは、母性的な愛の神しか強調しないキリスト教会は、知らず知らずの内に、女神信仰のような、偶像崇拝に陥ってしまいかねないということです。
残念ながら、教会指導者によるパワハラ、セクハラ、教会のカルト化という事例は、後を絶ちません。
その背後に浮かび上がってくるのは、歪められた神の姿です。
契約と自由に基づく愛を教えない教会は、たやすく、無制限の従属と支配に陥ります。
愛の神だけが強調されることによって、依存的体質が強められます。信徒の自立は許されず、徹底した従属が求められていくのです。
義の神が語られない教会では、指導者が約束を破り、罪を犯しても、軽くしか取り扱われないでしょう。
指導者の罪を正しく裁くことができず、犠牲者には、加害者の罪への許しが、愛の業として強要される。
歪んだ母性的教会の犠牲となっている多くの人々がいます。
聖書的に正しい父性は、契約に基づき、信者の自立を促すものです。
律法は、奴隷から救い出されたイスラエルの信仰を育み、メシアへと導く養育係でした。(ガラテヤ3:24)
今の教会時代にあっては、信じたすべての人の内に、聖霊が住まわれています。
自立し、成熟した信仰者となり、使命感を持って遣わされて行くことを、私たち一人一人は、求められています。
信仰を成長させ、自立した信者となっていくために必要不可欠なことは、神の契約について学ぶことです。
主の恵みは、約束に基づく恵みだからです。
神は、ご自身の約束を、どのように成し遂げられ、今も推し進められ、どのような形で完成しようとされているのか。
今、この教会時代に、私たちが従うべき、神の規範とは何なのか。
神の契約に基づき、創世記から黙示録まで、神のご計画の全体を学び、体得していくこと。
それこそが、歪んだ母性的教会の束縛から逃れ、真の自由を得ていく道です。
神の法は、人に自由をもたらす規範です。
自由のないところに愛は生まれず、自発性が尊重されないところで、愛が育まれていくことはありません。
クリスチャンに与えられた使命を覚え、神のご計画の全貌を理解し、自由をもたらす真理に立っていきましょう。
自由をもたらす真理の鍵。それが、聖書に記された神と人との契約です。
「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
ヨハネ福音書8:31~32