十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

父性が歪むとどうなるの? 律法主義と自己義認

2022/09/12
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

1.歪んだ人間的父性がもたらすもの

愛ばかりを強調する母性的教会がもたらす、依存と支配の悪影響。

偶像礼拝とも絡めてメッセージでも触れ、ブログにも記事を掲載したところ、多くの方から共感の声が寄せられています。

その中で気づかされたのは、母性的教会は、規律ずくめの父性的教会の反動なのかもしれないということです。

 

聖書的父性とは、契約に基づく規範と自由。信者の自立と成長を促すものです。

契約の概念は、学ばなければ身につきません。父性も同様です。

しかし、罪ある人は、神の求める父性もゆがめてしまいます。それが人間的父性です。

無条件の愛と無制限の束縛が、人間的母性の結果なら、人間的父性は、一体何をもたらすのか。

それが、律法主義と自己義認なのだと思います。

 

信仰により恵みによって救われる。この原則を「信仰義認」と言います。

一方の「自己義認」は、自分の行いによって、自分の正しさを証明し、救いを得ようとすることだと言えるでしょう。

 

一般的な説明では、父性的愛とは、条件付きの愛だと言われます。

つまり、「○○をしたなら(しなかったら)愛する」ということです。

人間的父性とは、つまり条件付きの愛です。

人間的な、父性的な愛ばかりが強調されると、子どもは、「○○できない自分は愛される資格がない」という自己否定につながります。

規則ずくめの父性的教会で育ち、自己肯定感の薄い人が、母性的教会に惹かれ、結果として人間的母性の依存と束縛に飲み込まれていくとしたら、悲劇です。

 

2.聖書における律法主義

主イエスが真正面から対峙されたのが、律法主義に陥っていたパリサイ人(パリサイ派)たちでした。

パリサイ人に対して、主イエスは、民に重荷を負わせながら、指一本貸そうとしない者たちだと、厳しく非難されています。(マタイ23:4)

 

旧約聖書には登場しない、パリサイ人。彼らのルーツは、旧約と新約の空白期・中間時代にあります。

バビロン捕囚からの帰還後、イスラエルの民は、さすがに深い悔い改めに導かれました。

二度と律法に背かないことを誓ったまでは良かったのですが、予防策として付け加えた教えが、新たな問題を引き起こしました。

人間が、神の律法に勝手に付け加えた教えを、専門的には「口伝律法」と呼びます。聖書では、“昔の人の言い伝え、長老たちの言い伝え“と、呼ばれているものです。

口伝律法では、例えば、安息日の規定を厳守するために、労働の解釈をどんどん厳しくしていきました。

その結果、出歩ける距離に制限が設けられたり、病気の治療すら緊急性のないものは禁じられてしまったのです。

 

こうして、数百年の中間時代にできた無数の口伝律法が、イスラエルの民をがんじがらめにしていました。

口伝律法を守った者には、来たるべきメシアの王国、神の国で、高い地位が約束されていると、律法主義者たちは主張したのです。

安息日に癒やしを行ったイエスは、パリサイ人や律法学者たちに厳しく非難され、メシアの証拠である奇跡は、拒絶されてしまいました。

 

主イエスは、神の律法を完全に遵守された唯一の方です。一方、人の作った口伝律法は、完全に否定されました。

それが、イスラエル指導者の怒りを買い、決定的拒絶をもたらしたのです。

口伝律法にとらわれた律法主義に対して、主イエスは再三、神の愛を説かれました。

神への愛、隣人への愛、それが神の律法の本質です。

主イエスは、神の無条件の愛に、愛を持って応答するよう求められました。

 

3.父性的教会と母性的教会

歪んだ父性性は、自己義認に基づく律法主義をもたらします。

罪ある人間が、自分の力で義を成し遂げようとすれば、偽善は免れません。

矛盾と偽善は、自己義認の必然的な結果です。

 

自分の正しさを主張するほど、内に抱える罪との落差は大きくなります。

偽善に満ちた偽教師たちを、主イエスは、「白く塗られた墓」と呼ばれました。(マタイ23:27)

表面的にはきれいに見えても、その内側は腐敗しきっているというのです。

 

父性的教会の特徴は、条件付きの愛と律法主義的支配だと言えます。

それは、無条件の愛と無制限の束縛をもたらす母性的教会と表裏をなしています。

律法主義的父性的教会への反動として、母性的教会が出現し、さらにその依存と束縛の反動として律法主義が強まる…。

人間的な父性と母性の間で、揺れ動いてきた。それが、地域教会の歴史的現実であったのかもしれません。

 

4.正しい父性と母性の回復のために

神は愛と義の方です。神の神性こそ、あるべき正しい父性と母性の原型です。

神は、罪を犯した人を憐れみ、一方的に、救い主を送る約束をされました。(創3:15)。

また、アブラハムと無条件契約を結ばれ、子孫の繁栄と約束の土地の授与、子孫に誕生するメシアによる全民族の祝福を告げられました。

全能の神は、人間を造られ、「極めてよかった」と言われました。イスラエルを産み、慈しみ、育まれました。

一方で、神は、万軍の主として敵を討ち、悪を憎まれる聖なる方です。

秩序正しい創造主である父なる神。憐れみに満ちた救い主である子なる神。常に背後で働かれる助け主なる聖霊。三位一体の神の内に、完全な父性と母性が表されています。

 

罪ある人間の父性も母性も、完全にはほど遠いものです。どうしたら、そこに近づいていけるのでしょうか。

信者の内におられる聖霊の助けを得て、神の契約を学び、日々の実践を通して体得していく他ありません。

私たちは、信仰の成長と共に、義と愛の神の似姿に近い者へと、少しずつ変えられていくのです。

 

神は、私たちを無条件に愛され、罪人を憐れみ、御子を犠牲にして、救いの手を差し伸べられた、愛の神です。

そして、世の終わりには、すべての悪を裁き、永遠の滅びへ至らせ、完全な世界を回復される、義の神です。

 

神の愛なくして正義はなく、神の義なくして慈愛はありません。

愛と義、二つが完全に一つである主のご性質を、いつでも胸に刻んでおきましょう。

 

一方的に愛され、恵みを味わわされた者には、応答として、決断と行動が求められます。

恵みと信仰によって与えられた救いは失われることはありません。犯した罪は、主に悔い改めれば、ゆるされます。

一方で、自らの蒔いた種を、自らの責任で刈り取ることをも、主は求めておられます。

悔い改めによって、すべての罪はゆるされます。同時に、行動の結果として、私たちが担うべき責任もあるのです。

父なる神は、愛する子を懲らしめられます。それは、私たちクリスチャンの成長を願っておられるからです。

 

神の恵み。ヘブル語でヘセッドと言います。神の「恵み(ヘセッド)」は、契約に基づく恵みです。

神の愛と義のご性質を、神の契約から学んでいきましょう。

神の契約について学び、理解を深めていくことが、私たちの父性と母性を正しく育む土台であると確信しています。

主の揺るぎない義に信頼し、計り知れない神の愛を日々味わい尽くして行きましょう。主は共におられます。

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