十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

聖書からジェンダー・性的役割を考える

 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 

1.ジェンダーとは?

「ジェンダー」という言葉があります。簡単に言うと、“社会的な性の区分”、“性役割”を表す言葉です。

これは男性の役割、これは女性の役割と、社会が暗黙の内に区分しているもの、それがジェンダーと言えます。

一方、「セクシャリティ」は、生物学的、身体的な性の区分を表す言葉です。

 

性的な役割の差であるジェンダーは、できるだけなくしていこう、というのが、日本を含め、特に世界の先進諸国での大きな流れになっていると思います。

進学や就職で、性別を採用の条件に含めないようにとか、男性も育児休暇をとって子育てに協力するように、というのは、ジェンダー・性役割に大きく関わることであるわけです。

合理的な理由のないジェンダーは、性差別であり、なくしていかなければならない。

そういう意識は、日本の社会でも、かなり共有されてきていると感じます。

 

ただ、ジェンダーという社会的な性の区分をどこにひくか、これはなかなか難しいことです。

特に議論を呼ぶのが、文化的、宗教的なジェンダーです。

日本で、度々話題になる文化的ジェンターの一つに、大相撲の土俵に女性が上がることができないという慣習があります。

古来、相撲が神事として行われていたことを考えると、これは、宗教的な価値観に基づく、宗教的ジェンダーだとも言えます。

 

2.聖書の記すジェンダー

では、聖書は、ジェンダーについて、どのような区分を記しているのでしょうか。

聖書の記すジェンダーは、非常に家父長的で、女性差別的だと理解している人は、少なくないように感じます。

以前は私もその一人でした。「性差別問題委員会」なるものに、久しく身をおいていたこともあります。

 

では、実際のところ、聖書はジェンダーについて、どのように記しているのでしょうか?

これが実は、思いのほか少ないのです。

改めて聖書を見渡してみて、抱いていた印象とは、相当に違うことに驚かされました。

 

社会や家庭で、男性、女性の役割は、こうあるべきなんてことは、ほぼないに等しいです。

聖書から適用するなら、夫婦間の役割をどうするか、というような問題については、ほとんどすべて、個々に任されているといっていいでしょう。

家事も育児も、その分担は、夫婦の関係性の中で決めればよいことです。

 

服装に関しては、旧約聖書の申命記に、女は男、男は女の着物を着るな(申22:5)とありますが、こんな服を着るべきだ、と具体的な提示があるわけではありません。

時代や文化によって、男女の衣服には違いがあり、その境は曖昧です。

申命記22:5は、律法の規定の一つですが、律法について言えば、その役割は終わっています。

 

3.教会におけるジェンダー

今の時代にクリスチャンが従うべきは、新約聖書におけるキリストの愛の律法。イエスが語られ、使徒たちが伝えた、その教えです。

夫と妻については、夫には妻を愛すること、妻は夫に従うことが求められています(エペソ5章他)。

ここだけを読めば、「妻に従属を求めるなんて性差別だ!!」となりそうです。

 

しかし、注意すべきは、夫に、妻に従えと命じることは、ゆるされていないということです。

夫ができるのは、妻を愛することだけなのです。

妻もまた、夫の愛を強要することはできません。ただ、夫に従うということだけです。

夫は、妻を愛せよ。妻は、夫に従え。

夫婦が、相手に対して互いに許されているのは、愛と謙遜だけなのだと教えられます。

主イエスが、互いに愛し合いなさいと弟子たちに求めた愛は、へりくだって仕え合うことでした。

「主イエスの愛で、妻を愛せよ」、ということは、実は、仕えよ、ということとイコールです。

 

もう一つのジェンダーの区分が、聖書の御言葉に関することです。

「女が教えたり、男を支配したりすることを許しません(Ⅰテモテ2:12)」とあります。

これは、教会のクリスチャンの男女に向けて命じられたことです。

聖書を教える、というこの一点についてのみ、男女のジェンダーの線引きが、明確になされています。

支配するとは、権威をふるうということですが、教会における権威は、聖書に記された神の御言葉に対する権利です。

教える、支配する。どちらも、御言葉を教える権威に関するものと理解してよいでしょう。

ここから導き出されるのは、男性に聖書を教えるのは男性に限られるということです。

つまり、男性と女性が共に集っている場所で、聖書を教えることができるのは、男性だけ、ということになります。

女性が、女性や子どもに聖書を教えることについては、何の問題もありません。

 

4.神の国でのジェンダー

では、死後の世界においては、ジェンダーは、どうなっているのでしょうか?

イスラム教では、聖戦によって殉教した者は、死後、7人の乙女をあてがわれる、という話を聞いたことがあります。死後も、ジェンダーが固定している訳です。

聖書に、死後のジェンダーは、どう記されているか、というと、これは、全く何もありません。

ジェンダーどころか、身体的な性的違いである、セクシャリティすら、完全に消失しています。

 

聖書の記す、信者が行く最終的な死後の世界が、神の国です。

「復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。マタイ22:30 」 イエスの言葉です。

聖書に登場する天使(御使い)は皆、男性形で記されています。

見た目は男性のような姿だったと推察されますが、かと言って性別があるわけではありません。

聖書によれば、性とは、ジェンダーもセクシャリティも、この世のものでしかない、ということです。

 

これは、ジェンダーやセクシャリティで苦しんでいる、すべての人にとっての福音であると思います。

体の性と心が認識する性の間にギャップを抱えている、性同一性障害で苦しむ人々がいます。

いくらホルモン投与し、性転換手術を受けても、変えようのない生物学的な壁があるわけですが、神の国では、そのすべてが消失します。

 

私自身、男ならこうあるべきという、世の求める男性性、ジェンダーには、苦しい思いを抱えていました。

運動音痴で内向的。世の求める男性像とは、遠いところにいたからです。

しかし、神の国でのありようが分かって、今はすっかり解放されました。

ジェンダーにしろ、セクシャリティにしろ、この世のものにすぎない。ならば、一時的な性に捕らわれる必要はありません。

むしろ、今の時だけに与えられた神様からの特別な贈り物として、感謝して、そのまま受け入ればいいだけです。

生えてくるものなら、伸ばしてみるか、と、髭を伸ばし始めたのも、そういう気づきがきっかけで、今に至っている次第です。

 

クリスチャンに求められる、男として、夫としてのジェンダーに関しても、肩肘張らず、自然に果たせるように変えられていきました。

私は、表に立って人々を引っ張るよりは、一人で書き物をしている方が生にあってますし、外を出歩くよりも、家の中のことをしている方が好きです。

冷蔵庫の残り物をどうアレンジしようかな、と考えている時間が、なにより気分転換になります。

ジェンダーに関して、私自身の本質は、昔も今も何も変わっていません。

ただ、聖書にある数少ないジェンダーに関する命令については、こだわり、従う。それだけです。

「真理は、あなたがたを自由にする。ヨハネ8:32」 

これは、ジェンダーにおいても変わらない、聖書の記す、主の永遠の約束です。

 

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