十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

終末論が大事ってどうして?

 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 

Q:終末論って、いろんな説があって、なんだかよく分かりません。信じて救われてそれで十分では? そんなに大事なものですか?

1. 語られなくなった終末論

戦前、戦中の日本で、どこよりも主の再臨への切迫感を持っていたはずの、とある教派の現在の様子を知って驚きました。

代々その教派に属し、両親ともに牧師という家庭で、その子息が、終末論についてほとんど無知だったからです。

その教派の神学校でも、終末論について確定的なことは教えられていないようです。

むしろ、終末論を語ることには、批判的な雰囲気すら感じました。

礼拝のメッセージの中で、終末論を取り扱う教会自体が少数ない中、従来、強調していた教派すら、積極的に語らなくなっているなら、とても残念です。

 

2. 消極的な、批判のための批判

終末論を積極的に語ることへの批判で、よく言われるのは、「なぜ、そんな確定的なことが語れるのか」ということです。

一つの立場から語る、そのこと自体が倦厭されるのです。

そのような批判が起こるのも無理もありません。

神学校で、終末論について、立場を明確にして教えているところは、きわめてまれだと思います。

A説、B説、C説がある、と並べて、おしまいというのでは、牧師が終末論を語れないのは当然のことでしょう。

分からないことを確定的に語るべきではない。キリスト教界の中に、そんな雰囲気が蔓延しているのを感じます。

結果、終末論など、メッセージで聞いたこともない、という信者が大半という状況が作り出されています。

【こちらのメッセージ冒頭で各終末論についてざっくりまとめてます➡】ざっくり黙示録・番外編 大患難時代の前に起きること

 

3. 終末論が語られないことの弊害

終末論が語られないことは、教会に、深刻な悪影響を及ぼします。

救いは、福音を信じて洗礼を受けた、最初の経験でおしまい。

その後の信仰生活は、自分の問題で完結してしまうからです。

 

自分のことにしか関心の向かない内向的なクリスチャンが増えています。

悩みの中心は、自分のことか、せいぜい、自分を中心とした人間関係止まり。

そんな中、癒やしのプログラムなどが流行るのも、当然の結果だと思います。

心を病んでしまう人に共通の問題は、自分にばかり関心がいってしまうことです。

現代社会の抱える病の要因の一つが、「自分」です。

果てしない自分探しに力を使い果たしている人、理想の自分とのギャップに絶望している人。「自分」がもたらす深刻な病があります。

福音を信じて救われたものの、どうしていいか分からない。

ゴールも分からないまま、闇雲に、前進しろ、成長しろと追い立てられるとしたら、こんなに苦しいことはありません。

できない自分に対する落胆は、深まるばかりです。

【関連記事】聖書が教える癒しとは?

 

4. 聖書には、スタートとゴールがある

聖書は、天地創造、人間の堕落から始まって、メシアの十字架と復活を中心に、メシアの再臨、世界の回復というゴールまでを明確に記しています。

聖書の神は、初めから終わりまでの世界の歴史を超越し、治める方です。

聖書のもたらす希望は、終末論的希望です。

“世の終わり、すべての信者は、完全に回復された世界に、永遠に住まわせられる”

この約束されたゴールに向かって、今を歩んでいるのが、信じて救われたクリスチャンなのです。

 

旧約聖書には、世の終わりの裁きについて、回復される理想世界について、何度も何度も記されています。

苦難の中で、聖徒たちを支えたのは、将来必ず実現すると約束された、神の国でした。

目に見える形で、この世界そのものが完全な姿に回復され、主を信じたすべての者は、苦しみも涙もなく、永遠に生きるのだということです。

 

イエスの時代にも、イスラエルは、神の国を切に待ち望んでいました。

イエスがメシアであるなら、すぐにでも神の国が実現されるに違いないと、多くの人々が熱望していました。福音書を通して強く迫ってくることです。

現実は、イスラエルが公式にメシアを拒んだため、神の国は、はるか未来に先延ばしになりました。これは、神の計画では、見越されていたことです。

メシアの十字架と復活、昇天の出来事を経て、弟子たちは、神の国に関するこの事実を受け入れていきます。

 

しかし、弟子たちの終末への期待は、おさまるどころか、むしろ燃え上がっていきました。

聖霊降臨後の使徒ペテロの最初の説教は、ヨエル書の終末預言の引用から始まっています。

使徒パウロは、その伝道生涯を走り通したように、常に、終末への切迫感を抱いていました。

聖書は明確に、終末を待ち望む使徒たちの信仰の態度をこそ、信者が模範とすべき理想の姿として描いています。

すべてのクリスチャンは、常に終末を意識し、神の国を切望することを求められています。

【関連記事】Q:「神の国」「天の国」って、なんのことですか?

 

5.終末的希望が、クリスチャンの力の源

「再臨は来ないじゃないか」と不平を言い、終末的希望を捨て去る人々が、使徒の時代にすでにいました。

使徒ペテロは、動揺することなく、神の時と人の時は違うことを告げています。

かつて大洪水で裁かれた世界は、火の裁きを通って、回復に至るのです。

神は、忍耐して、救いの機会を保ってくださっているのだとペテロは断言しています。(Ⅱペテロ3:8)

 

過酷な伝道生涯を送ったパウロを支えたのは将来の希望でした。

中でもパウロは、「第三の天」を垣間見た事実の衝撃を語っています。

おそらくは、ヨハネが黙示録で記していることを、パウロも目撃したのでしょう。

将来約束された栄光に比べれば、今の苦難など比べるべくもないと、パウロは力強く言い放っています。(Ⅱコリ12:5)

 

アブラハムもモーセもダビデも、苦難の中の希望の根拠は、はるかな将来の神の約束の成就にありました。

聖徒たちが讃え、力としているのは、必ず実現される、主の約束に他なりません。

その中心に、終末における、完全な世界の回復の出来事があるのです。

 

本当の平安を味わいたいなら、聖書の示すゴールをはっきりと捕らえましょう。

確かな終末観を抱くことで、救いの確信が強まります。

どれほどの恵みが約束されているかが分かれば、本当の喜びが溢れてきます。

喜びの中から、これを伝えたいという思いもわき上がってきます。

そうして遣わされて行くところに、将来の先取りとしての、たくさんの祝福を味わわされていくのです。

 

すべてを成し遂げられるのは、主ご自身です。

どうにもならない自分自身の欠けも、すべてが完全に回復される時がやってきます。

ただ主を信頼し、御言葉を味わい、学びましょう。

御言葉をたずさえて、福音宣教に押し出されていきましょう。

学ぶほどに深まる確信が、私たちの今を支え、導く力となるのです。

【終末論を詳しく知りたい方は、こちらのシリーズをどうぞ➡】 ざっくり黙示録

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