十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

神の義と神の愛 父性と母性 律法と永遠のアブラハム契約

2020/10/08
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 

1. 自己肯定感が低い人の共通点

自己肯定感が低い人が、増えていると言われます。

自己肯定感の低さの原因に、幼少期の体験が根っこにあるとは、よく聞かされることです。

その場合、二つのケースがあると思います。

 

一つは、無条件に愛された、という実感が乏しかったということです。

誰もが、無力な赤ん坊として生まれてきます。自分の体も心も、まるで思うようになりません。

にも関わらず、親によって必要を満たされていく。人は、その課程で無条件に、自分は大切な存在なのだと知っていくのです。

 

母性によって育まれた人は、さらに父性によって成長を促されていきます。

父性から学ぶのは、自分の決断に責任を負うこと。

大切なのは、自分で決断し、行動した、あるいは行動しなかった結果を、失敗であれ、成功であれ、きちんと受け止めるということです。

自己肯定感の低い、もう一つのタイプの人は、この体験が不十分です。

親や周囲の人が、巧みに忖度(そんたく)して、先回りしてやってくれる。失敗しても尻拭いしてくれる。それでは、何一つ、自分のものにはなりません。

 

幼稚なまま、大人になってしまった人の大きな特徴は、自分で決められない、決めようとしないということです。

自分で決めたら、責任をとらなければならない、だから回避するのです。

何か問題が起きてしまった時には、自分が決めたことではないと、他者に責任を押しつけるのが、常套手段です。

 

2. 律法が促す、民の成長

神がモーセを通して与えた律法には、二つの側面があります。

まず一つは、律法とは、一方的な恵みであること。

神が、イスラエルを選び、育み、奴隷から解放し、律法を与え、ご自身の宝の民とされたのです。

神が、アブラハムとその子孫に約束された。

これは永遠の約束で、決して破棄されることはありません。神は、民を永遠に愛されます。

 

そして、もう一つ、神は、イスラエルが成長していくことを求められます。

律法に従うならば祝福が、逆らうならば呪いがある。イスラエルは、自ら決断して、この律法に同意しました。

失敗も成功も、その結果を負うと誓約したのが、モーセ契約に他なりません。

聖書の神は、愛であり、義です。

無条件に、イスラエルを愛される一方、背きには懲らしめ、従順には報償を与えられるのです。

 

愛する子の成長を心から願うのが親です。

どんなにささいな変化であっても、それを見いだし喜ぶのが、本当に愛情深い親の姿だと思います。

神はまさに、愛情深い親の思いで、私たちの成長を願い、時に懲らしめを、時にご褒美を与えられるのです。

 

3. 失敗にも関わらず

聖書とは、人類の失敗の歴史を記したものだとも言えるでしょう。

信仰の父と呼ばれるアブラハムですら、生涯繰り返してきた過ちがありました。異母姉妹でもある妻サラを、「妹」だと偽っていたことがそうです。

真実を意図的に半分隠す。それは、より巧妙で深刻な嘘に他なりません。

アブラハムが長年の嘘を悔い改めた後、ついに約束の子イサクが与えられました。

 

ダビデは、部下ウリヤの妻バト・シェバと不倫をし、子ができると、ウリヤを殺してしまいました。

ダビデが晩年、家族問題に苦しんだのは、重い、罪の刈り取りだったのかもしれません。

しかし、ダビデの王座は守られ、メシアにつながる家系は、保たれ続けていったのでした。

悔い改めたダビデを、主の一方的な約束が支え、導かれました。

 

律法に基づく誓約をしたイスラエルは、神への深刻な反逆の結果、バビロン捕囚の悲劇を招きました。

イスラエルの離散と流浪の末に、しかし、神は、メシアを送られたのです。

メシアを拒んだイスラエルでしたが、それでもなお、アブラハムへの約束は生き続けています。

イスラエルという折り取られた枝が、再び主という幹に接ぎ木される時が約束されています。

 

4. ペテロに学ぶ、信仰者の態度

使徒ペテロがおかした、たくさんの失敗が、福音書には記されています。

最も重大な罪は、ペトロが主イエスを知らないと三度も口にし、呪ったことでした。

しかし、それでもなお、ペテロは、使徒のリーダーとされました。

イスラエル、サマリア、異邦人へと、宣教の扉を開く重大な使命を任されたのです。

 

ペテロは、確かに、たくさんの失敗をし、重大な罪を犯しました。

しかし、何より主が評価されているのは、ペテロが悔い改めて、主を信頼したということです。

聖霊が降ったペンテコステの時。人々の前に立ち上がり、イスラエルの罪を指摘し、福音を告げ、悔い改めを促した。それが、あのペテロでした。

使徒の働きには、度重なる迫害にも、困難にも関わらず、福音を告げ、御言葉を解き明かして行ったペテロの姿が、生き生きと記されています。

 

私たちの主は、失敗を責める方ではありません。私たちのチャレンジを喜ばれる方です。

ペテロが、たくさんの失敗を記されているのは、それ以上にたくさんのチャレンジをしたからです。

たとえ大きな罪を犯してしまったとしても、悔い改めるならば、赦される道が、私たちには約束されています。

一度、福音を信じたならば、その救いは決して取り去られることはありません。

私たちは、神の永遠の約束である、アブラハム契約に接ぎ木された者だからです。

 

主は、憐れみ深い、恵みの方です。

私たちが成長し、さらなる祝福を、今この地上生涯から味わって行くことを、切に願っておられます。

失敗を恐れず、ただ主を信頼して、次の一歩を踏み出していきましょう。

 

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」
ヨハネの手紙Ⅰ1:9

 

付記:自己肯定感を高めるためには?

完全な親などいなければ、問題のない家庭もありません。

その一方で、甚だしい欠損を抱えた、機能不全の家庭環境で育った人もいます。

何より問われるのは、家族の形ではなく、本質的な愛においてです。

 

母性愛が欠けていて、愛されたという実感が得られなかった。

父性愛が欠損していて、決断と責任を十分に身につけられなかった。

だからと言って、誰も、過去に遡って、修正することなどできません。

 

しかし、聖書は、完全な回復の道を確かに示しています。

公正な義と永遠の愛である、唯一の主なる神を信頼すること。

主イエス・キリストが、わたしの罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、復活された。

この福音を受け入れ、主イエスを信じた瞬間、あなたは、神の尊い子どもとされています。

 

主イエスに信頼して、歩んでいくならば、主ご自身が、完全な愛で、あなたを満たし、育んでいってくださいます。

主は、無条件に、あなたのすべてを受け止められ、人生のあらゆる時にあなたと共におられ、おおいなる慰めと的確な懲らしめをもって、導いてくださるのです。

その歩みの中で、放置されたままの傷は癒やされ、どうしようもない欠けが埋められていきます。

主を知ることが、喜び満ちた人生の、はじめであり、おわりです。

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