あえて「ざっくり」にこだわって、聖書を学んでいきたいその理由
1. 正しさを振りかざす人々
鹿追教会のアカウントでツイッターを始めて間もない頃、なんとも不可解な体験をしたことがあります。
私が書いた記事に対する批判を、フォロワーでもある人が、仲間とおぼしき数人の人々と行っていたのです。
批判自体は、あってしかるべきことだと思いますが、まず疑問に感じたのは、なぜ直接言わないんだろうということでした。
裏で、しかし、間接的に当人の耳にも入るような形で、批判や悪口を言う。この構造が、よくあるいじめそのものです。
やりとりの最後は、「読む価値ないね」と見下げておしまい。「ディスる」とは、まさにこういうことだと感じました。
次第に分かってきたのは、どうも、このグループの人たちが、ネット上で、牧師や他のクリスチャン、求道者など、いろんな人を対象に、やり玉に挙げては、こき下ろすということを繰り返しているらしいということでした。
厄介なのは、当人たちは、強い正義感をもってやっていること。
見えてきたのは、聖書塾でも学び、かなり詳細な聖書知識を持ったAさんが中心にいて、周囲に取り巻きのような人々がいるという図式です。
取り巻き連中が、これおかしいよね、と持ってきた題材に対して、Aさんがジャッジし、やはりそうだとこき下ろす。
Aさん自身は、こだわり強く真剣に聖書を学んでいる人なのでしょうが、結果的には、いじめグループに、相手を裁く材料を提供している訳です。
Aさんの動機が善意であるなら、利用されていると言えなくもありません。
2. 正しさという罠
私が体験した先述の出来事の中で、もう一つ疑問に感じたのは、批判の内容です。
対象になっていたのは、私が神学的な概念を、図と合わせて簡潔にまとめた記事でした。
それに対して、「このことも、あのことも書いていない」という批判だったのです。
そもそも、大枠をまとめた記事ですから、細部は省略しているわけです。
これを削ってしまったら本質が歪んでしまうという重大な欠陥があるということなら、きちんと理由を挙げて批判すればよいし、あるべきモデルを別途示されたらよい。それだけのことです。
やはり明らかになるのは、正しさを振りかざしてはいるけれども、実際の目的は、相手をこき下ろすことそのものになっているという歪んだ事実です。
自分自身も経験のあることで、自省をこめて言いますが、これは、知識を手にした誰もが陥りやすい罠です。
知識は、両刃の剣。取扱い方を間違えれば、他者も自分をも傷つけてしまいます。
どんなに正しい聖書知識だとしても、それを取り扱う私たち自身は罪人であることを忘れてはならないと思います。
あなたは正しすぎてはならない、という警告が、聖書にあります(伝道者の書7:16)。
両刃の剣である御言葉を、正しく取り扱う力量など、罪人である私たちには、そもそも備わっていないのです。
知識という力は、たやすく、支配欲や自己顕示欲と結びつきます。そうなれば、たちまち、人を傷つけ、支配する凶器と化してしまうのです。
知識をもって正しさを振りかざす人々が、一方で、自分自身にどうしようもない生きがたさを抱えていたり、放置されたままの深刻な家族問題を抱えていたりする。
それも、度々直面させられる一面です。
そういう人々にとっては、聖書知識を持って自分の正しさを主張し、他者を裁くことが、逃げ場になってしまっているわけです。
聖書が常に、読む者に問いかけるのは、自分自身と神との関係です。
自分と家族に向き合えない人が、聖書と正しく向き合うことはできません。
3. 誰一人到達しえない神の正しさ
私がかつて通った神学校で、唯一学んだのは、人それぞれに答えが違うという事実でした。
神学者それぞれに、あまりにも理解が異なるので、注解書を開くほど、訳が分からなくなっていくのです。
聖書本来のヘブル的文脈を見失い、比喩的解釈に陥った教会の歴史的産物だと、今振り返れば分かります。
私が学んだのは、いわゆる自由主義神学に立つ、日本でもかなりリベラルな神学校だったと認識しています。
しかし、比喩的解釈の影響は、自由主義神学にとどまらず、残念なことに、福音派の神学校の多くにも及んでいるようです。
この問題の、さらに根っこを探るなら、人間による解釈の限界に突き当たります。
そもそも、罪ある人は、一体どこまで、神の意図を正しく理解しうるだろうかという根本的な問題です。
中川師やフルクテンバウム師を通して、私は、ヘブル的視点に立ち、字義通りに聖書を学つ恵みを知りました。
人生をかけるに値する真理を見いだしたと確信しています。
しかし、それは、100%の真実を手に入れたなどということではありません。
私たちの人生で、信仰の成長である聖化の課程が完成することなどないように、真理の探究がゴールに行き着くことも決してないのです。
神が求める正しさの基準に、私たちは誰一人到達することはできません。
聖書の原典研究も翻訳も解釈も、常に未完成の途中経過の中にあるのです。
聖書が繰り返し教える真理は究めてシンプルで、信頼する者に揺るがない信仰の土台を与えてくれるものです。
その一方で、人による聖書のどんな解釈にも、常に幅と揺らぎがあります。
同じヘブル的視点に立って聖書を学んでいる者同士だとしても、細部になるほど、違いが見えてきたりするのです。
これは、当然あること。むしろ、あってしかるべきことです。その事実を無視するとおかしなことになります。
4. 「ざっくり」に、こだわりたい
次元を越えた神の真理を、人間の言葉で言い表す。それは、三次元の世界を二次元の絵に描くことに似ています。
例えば、富士山を、一つ一つの山筋にいたるまで詳細にリアルに描いたとします。
しかし、どんなに精緻に描いたとしても、それは、時と場所によって刻々と表情を変える富士山の、ほんの一面を切り取ったに過ぎません。
ある地点から精細に描かれた一枚の富士山の絵を手元において、他と比較して、ここがおかしいと言い始めたらどうなるでしょうか?
真理のごく一面だけを切り取って、他をすべて切り捨ててしまうことになります。
このように、正しさにこだわりながら、逆に、真理から遠ざかってしまうということが、私たちにはあるのです。
また、富士山という巨大な山が放つ空気感を表現したいなどという時には、どうでしょうか。
詳細な描写よりも、抽象的な表現の方が適している場合も往々にしてあります。
聖書の真の著者である主が、そんな人間の知覚の限界を理解されていないはずがありません。
ですから、聖書は、史実の記録だけでなく、詩歌や預言、抽象や比喩的表現など、様々な側面から、一つの真実を描き出しているのです。
聖書を理解するために、歴史的事実としての正確さにこだわることも大切ですが、同時に、芸術的表現を、身体的に味わい知ることも欠かせません。
人間の罪の性質と言葉の限界を踏まえた上で、ざっくりと聖書を学び、概観を捕らえていく。それもまた、聖書が読者に求めている大切なアプローチです。
決して変えてはならない原則については、聖書は繰り返し、手を変え品を変え、教えます。
すべての人は、裁かれるべき罪人である。救いは、ただ信仰と恵みによる。
今の時代に救いを得るためには、主イエスの十字架の贖い・葬り・復活の福音を信じるしかないことは、聖書全体が示す結論です。
一方で、70人なのか75人なのか。40年なのか38年なのか。聖書には、精緻さに欠け、矛盾しているように見える記述もあります。しかし、それにも理由があるのです。
木を見て森を見ず。細部に囚われて本質を見失うなと、主は、私たち人間の陥りやすい罠を警告されているように感じます。
主イエスが厳しく非難された、律法主義者、パリサイ人とは、まさにそういう人々でした。
この世に生きる人間の限界を承知した上で、細部に囚われることなく、骨格となる本筋をまずは理解していくこと。
聖書が私たちに求めているのは、主を知ることにほかなりません。
ただ頭の中だけの、断片的知識にとどまらず、日々の歩みを通して、身をもって主を知っていくことが求められています。
これからも私はあえて、ざっくり聖書を学ぶことを強調していきたいと考えています。
ペテロやパウロが、聖徒たちが、ただの知識にとどまらず、知・情・意のすべてを通して主を知らされていった。そこにこそ、近づいていきたいと切に願います。
ユダヤ人も異邦人も、主をおそれ求めるすべての人が、完全に主を知る時が来ることを、聖書は約束しています。
まさに、その恵みの先取りとして、これからも喜んで聖書を学んで行きたいと思っています。
ヘブル人への手紙8:10~11
これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである。──主のことば──
わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
彼らはもはや、それぞれ仲間に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。
彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ。