十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

こうすればよくなる!?ハウツーものって聖書的? 

2020/12/09
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

Q:誰でもできる癒やしとか悪霊払いとか、いろいろありますけど、聖書的にはどうなんですか?

1. 画期的な癒やしのプログラム?

とある超教派のクリスチャンのネットワークにつながっていたことがあります。

そこでは、海外から、いろんな講師を呼んで、様々なプログラムを行っていました。

ある時、誰でもできるという画期的な癒やしのセミナーの開催について案内があったのですが、しばらくして中止の連絡が。講師の病気が理由でした。

いったい何の冗談かと、あぜんとしました。私が、そのグループを離れる要因の一つになった次第です。

 

また、過去に遡って心の傷を癒やすというとあるセミナーでは、のめり込むほど、病んでいく人々を目にしました。

その癒やしのセミナーに入れ込んでいた、ある牧師は、あの人は病んでいるんです、と、信徒のことをあれこれ言い立てながら、激情あらわに机を蹴っ飛ばしていました。

そのセミナーでは、ひたすら過去の傷を掘り下げて、私は、この人の罪を赦しますと宣言するのですが、かえって強まるのは、私は傷つけられたんだという被害者意識なのです。

無理もないことだと思います。

被害者意識で凝り固まった人が、ますます病んでいく。少なくない人が、そんな悪循環に陥っていました。

 

強く願い続ければ、求めるものを得られるとか。悪霊を追い出せば問題を解決できるとか。この手のものは、次から次に新手が出てきます。

そもそも、“こうしたらよくなる”という考え方そのものに疑問があります。

聖書は、そんなことを教えているのでしょうか?

 

2. ただ一度きりの神の奇跡

とある教会では、新会堂建築のための土地を示されてというもの、教会員がこぞって、その土地へ行き、周りをぐるぐる巡っていたそうです。

その土地がタマネギ畑だったことから、タマネギ契約と呼んで、大真面目に、これを行っていたと聞きました。

なんでそんなことを、というと、エリコの戦いでイスラエルが城壁の周りを巡った出来事を根拠にしているわけです。(ヨシュア記6章)

聖書に書いてあるじゃないかと言うのですが、どうなのでしょう。

 

エリコ陥落の出来事で重要なのは、イスラエルが主の命令に従ったということです。

城壁の周りを巡ることに一体何の意味があるのか。神は一切説明されていません。それは問題ではないのです。

イスラエルは、ただ主の命令に従い、結果として、神は城壁を破壊されたのでした。

これをマネしても無意味です。神が、城壁の周りを巡るように命令されているのは、後にも先にもこれ一度きりです。

 

主イエスは、様々な仕方で多くの人を癒やされました。

手を置くこともあれば、命じられるだけの時もあり、ある時には、つばで泥をこねて、まぶたに塗るなんてこともされています。

じゃあ、と真似たくなるのが、私たちなのですが、主イエスが意図されているのは、真逆のことです。

主イエスの行動は、その時々で違い、法則性がありません。

私たちが、形ばかりを真似しないように、わざわざそうされているのです。

 

3. 癒やしの賜物

福音を信じた人には、誰もが“聖霊の賜物”を与えられています。

“聖霊の賜物”とは、キリストの体なる普遍的教会の一部としての働きです。

体の細胞には、それぞれ何らかの役割が与えられているように、すべての信者には、各々の使命を果たすための聖霊の賜物があるのです。

 

聖霊の賜物の一つに、癒やしの賜物があります。

注意すべきなのは、これは、その人が触れれば癒やされるなどというものではない、ということです。

癒やしを行われるのは、主ご自身です。その人を通して、神の力が現れているのであって、主権はあくまでも神にあります。

使徒パウロは、驚くべき癒やしを行っていますが、彼自身には、癒やされることのない「とげ」がありました。

体の弱いテモテに、パウロは、水ばかりでなくぶどう酒も飲むよう勧めています。使徒達も体調で悩むことがありました。

 

4. しるしとしての聖書の奇跡

癒やしも悪霊の追い出しも、超自然的現象も、聖書の奇跡はすべて、神が働かれたことの“しるし”です。

“しるし”とは、つまり、神ご自身による証明です。

世界の法則を超越できる方がいるとすれば、創造主なる神以外にはありません。

神の存在を明らかにするための“しるし”なのです。

 

しるしは、保証でもあります。

その指導者や預言者の語っていることは、確かに神の言葉であると、正統性を保証しているのです。

旧約聖書で、劇的なしるしが集中して起こっているのは、二つの時代です。

イスラエル民族が誕生し、約束の地に入っていくまでのモーセ、ヨシュアの時代。そして、イスラエルが神に背き、国家存亡の危機に陥っていった、預言者達の時代です。

この時代のしるしは、モーセ、ヨシュア、預言者達の告げる預言の正統性を保証するために、必須のものでした。

 

このように、聖書の奇跡で重要なのは、「それが何のしるしなのか」という意味です。

しるしを目撃した者に求められるのは、神を恐れ、主に聞き従うことに他なりません。

しるしばかりを求めて、従わなければ、最期には、神の怒りを買うことになるでしょう。

事実、預言者達の警告に耳を貸さなかったユダは、バビロン捕囚の悲劇を味わわされることとなりました。

また、メシアを拒んだその世代のイスラエルは、エルサレム陥落と離散という結果を招いています。

 

5. 無意味な奇跡に注意しよう

礼拝中に金粉がふったとか、不思議な石が会堂に落ちてたなんて話をありがたがってする人がいます。

そもそも聖書にも記されてない事例なので、そこからして疑問なのですが、なにがあったにせよ、聖書は、ただの不思議な現象を、しるしとは呼びません。

サタンにだって、ある程度のことはできるからです。

問われるのは、「そのことに一体何の意味があるのか」ということです。

現象をありがたがっている時点で、極めて非聖書的なのです。ハウツーものに捕らわれるのと本質は同じです。

 

使徒達の活動にしるしが伴ったのは、彼らの正統性を証明する必要があったからです。

現れた神のしるしを通して、使徒達の教えや、その教えを記した書簡にも神の権威が認められました。

新約聖書の正統性は、神のしるしによって保証されているのです。

 

聖書の最期の書物、黙示録には、これに加えても除いてもならないと厳しく命じられています。

つまり、この時代に私たちの知るべきことは、聖書を通してすべて与えられているということです。

ですから、基本的に、主は、この時代にこれ以上のしるしを必要とされていません。これが原則です。

 

私たちは、信仰の歩みの中で、神の介入であるとしか説明のつかないことを経験することがあります。

個人的に与えられる神のしるしによって、信仰を強められることがありますが、それは、私たちが意図して引き起こせるものではありません。

 

主権は神にあります。

主が必要とされれば必ずなされますし、不要なことはされません。それだけのことです。

奇跡が起こるにしても、起こらないにしても、重要なのは、そのことの意味を主から聞きとるということ、それだけです。

 

癒やしにしろ、悪霊の追い出しにしろ、何にせよ、ハウツーものは、神の権威を貶めるものに他なりません。

何かの方法によって自分が神を動かせるなど、不信仰の極みです。

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