十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

カルトにだまされないために 知っておくべきキリスト教の基本的教理

 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

はじめに

阿倍元首相を殺害した容疑者が、統一協会への恨みを口にしたことから、カルトに対する関心が強まっています。

統一協会が名前を変えながらも本質は変わらず、今にいたるまで多くの被害を生み出し続けてきたことも明らかにされています。

統一協会は、世界中に進出している訳ですが、際だって被害が大きいのが日本です。

確立された巧妙なマインドコントロールの手法があるわけですが、一方で、キリスト教のごく基本的な教理さえ知っていれば避けられたのに、と感じる側面も多々あります。

カルト被害にあわないために、多くの方に、ぜひ、知っておいていただきたいと、ここに記す次第です。

 

1. 自称メシアは、すべて詐欺

統一協会の教祖である、故・文鮮明氏は、メシアを自称していました。

メシアとは、「救い主」ということ。聖書に由来する言葉です。

 

古代イスラエルでは、王や祭司の任命の時に、オリーブ油を注ぐ儀式を行っていました。

イスラエルの言葉であるヘブライ語の「油注ぎ(メシアッハ)」が転じて、究極の王・祭司として来ると神が約束した「救い主」のことを「メシア」と呼ぶようになりました。

イスラエルのベツレヘムで生まれ、ナザレで育ったイエスが、メシアである。というのが、キリスト教の教理の根本です。

ヘブライ語のメシアを、ギリシャ語では、キリストと言います。(イエスの時代のイスラエルは、ローマに支配され、ギリシャ語が公用語とされていました。)

 

メシア(キリスト)は、どのようにして救いの業を成し遂げたか。

聖書はそれを、“私たち人類の罪を身代わりに負って十字架にかけられることによってだった”と記しています。

すべての罪人に下る神の怒りを、イエス・キリストが受けられたということです。

十字架で死んだイエスは、三日目に復活しました。

これは、蘇生ではなく、この世の肉体を超越した神の国の次元の体に生まれ変わったということです。

復活から50日後、イエスは天に昇りました。将来、再び地上に戻って来るという約束を残して。

 

天に昇ったメシアが、再び地上に戻ってくる。これを「再臨(さいりん)」と呼びます。

キリスト教を利用したカルトは、ほぼ例外なく、メシアの再臨の教理を悪用しています。

つまり、○○という教祖が再臨のメシアだ、という訳です。

統一協会の教祖、故・文鮮明氏もその一人です。

 

聖書から言うと、自称メシアは、すべて偽物と断言できます。

なぜなら、再臨のメシアは、天に昇られた時と同じ、栄光の姿で戻ってくると約束されているからです。(マタイ24:30)

メシアが再臨される時には、稲妻が走るように、すべての人の前に明らかにされます。(マタイ24:27)

世界中の人が、信じる者も否定する者も否応なしに、メシアだと認めざるを得ない。そのような姿で現れるということです。

ですから、ただの人間がメシアである、なんてことは絶対にありません。

 

2. 指導者だけが知る秘密はない

聖書から言えば、自称メシアはすべて偽物です。

それは偽る方も分かっているので、納得できるような理由付けをします。

聖書からは説明できないので、特別な神の啓示を受けたと主張するのです。

 

異端の特徴は、聖書以外に独自の聖典を持っていて、そちらの方が聖書よりも権威があると主張することです。

モルモン教は、モルモン経。エホバの証人は、統治体の発行物。統一協会の場合には、文鮮明氏の言葉になります。

文鮮明氏が独自に知り得た特別な情報・神の啓示があり、それが、メシアの根拠とされているのです。

なぜ、それが正しいと言えるのか、という客観的な根拠はありません。

教祖だけが知っている秘密。これが、カルトの力の源です。

 

一方のキリスト教で、聖典は聖書だけです。

聖書は、歴史上、世界で最も多くの言語に訳された、誰もが読むことができる本です。

聖書自体に、聖書は、完結された神の言葉であり、足しても引いてもいけないと記されています。

つまり、キリスト教において、教祖や指導者しか知らない秘密など存在しない、ということです。

聖書の理解をめぐっての様々な解釈はある訳ですが、それが、聖書に照らし合わせて正しいかどうかは、誰もが、聖書から確認することができます。

 

神と人との仲介者がキリストです。

100%神であり、100%人であるキリストだけが、神と人との間に立つ完全な仲介者になれるということです。

キリスト以外の仲介者はいません。

福音を信じた誰もが、聖書を通し、キリストを仲介者として、直接神とつながることができる。

それが、キリスト教の基本的な原則です。

 

キリスト教において、指導者の役割は、一人一人が、キリストを仲介者として、神としっかり結びついていけるように手助けするということに過ぎません。

ですから、この人、この組織を通してでしか、神とつながることはできない、と吹聴しているなら、それは明らかに偽りです。

 

3. 先祖の罪は、関係ない

統一協会が、信者から多額のお金を巻き上げるために行っているのが、霊感商法と呼ばれるものです。

霊感信仰ではなくて、「商法」。この言い方が、本質をよく現しています。

あなたが持病で苦しんでいるのは、6代前の先祖の罪が原因だ、などと言って、先祖の罪をきよめるためと称して、高額な壷を買わせたり、多額の献金を求めたりするのです。

 

興味深いことですが、統一協会が、先祖の罪に訴えて信者からお金を巻き上げるこのような手法は、日本以外の国々では、ほとんど行われていないそうです。

特に、キリスト教圏の国々では、こんな脅しに乗る人はまずいないから、だそうです。

先祖に訴えるのは日本人には有効なので、統一協会は、それを最大限に利用している訳です。

 

聖書には、どう書かれているでしょうか。

親の犯した罪が、子や孫にまで悪影響を及ぼすことはあります(申命記5:9他)。

しかし、先祖や親の罪の責任が、子や子孫に求められることはありません。

人は、自分自身の犯した罪の責任を問われる。というのが、聖書における裁きの大原則です。(申命記24:16,ヨハネ9:3他)

先祖の罪をきよめたら、自分の問題か解決されるということも、ありません。

 

また、聖書によれば、死者の世界とこの世界は、神によって完全に隔離されています(ルカ16:20~31)。

死者が生きている人に影響を及ぼすことはできません。

聖書は、死者の霊との交流ということを堅く禁じています。その実体は、死者になりすました悪霊との交流だからです。

生きている人が、死者のために祈っても無意味です。

 

死者の永遠の運命は、その人の生涯の歩みが終わった時点で、神が決定されています。

人が、神が決定された死者の裁きの内容を知ることはできません。

死者の運命を変えることもできません。

親や先祖はどうなったのか。気になってしまうのが私たち日本人であるわけですが、そこは、人間には、もうどうにもできない領域なのです。

憐れみ深く、愛に満ち、公正な裁きをくだされる神に、すべてゆだねて信頼するしかない。

それが、聖書が信仰者に求める態度です。

 

統一協会のことを、キリスト教系の新宗教などという言い方がよくされますが、その教えを見ると、ほとんど関係ないことがよく分かります。

キリスト教的な、いくつかの用語を好き勝手に使っているだけで、アジア的な先祖崇拝など、様々な要素が、ごっちゃまぜになっています。さらには、国によって、信者に言うことも違うわけです。統一性もありません。

唯一、一貫性があるのは、金と権力を手に入れるためになら、信条も手段も問わないということだけでしょう。

金と権力。この一点においてのみ、統一されている。これこそ、まさにカルトだと痛感させられます。

 

聖書に基づく信仰は、マインドコントロールとは真逆です

聖書で、罪の始まりは、アダムとエバが、神の約束を破って禁断の実を口にしたことにあると記されています。

天地を造られた神から離れてしまった、これが聖書の言う「罪」です。

神から離れてしまった「罪」の結果が「死」です。

人が罪を犯した前提としてあるのは、神が、人間に「自由意志」を与えたということです。

人が「自由意志」を間違って行使した結果が「罪」でした。

 

人は、自由意志を与えられなければ、罪を犯すことはなかったでしょう。

しかし、自由意志がなかったら、人は、愛することも知らなかったでしょう。

愛する、ということは、自発的な決断です。

自由意志がないところに愛は生まれません。ロボットに愛はありません。

 

聖書は、神を愛すること、人を愛することを求めます。

それは、自発的な応答でなければ、まったく意味はないのです。

 

聖書が示す救いの条件は、信じることだけです。

「イエス・キリストが、私の罪のために十字架にかけられ、死を打ち破って復活された。」

この良い知らせ、「福音(ふくいん)」を信じた瞬間に救われるということです。

 

神は、心の中を見ますから、口先だけで信じますと言っても、信じたことにはなりません。

誰も、人を無理矢理信じさせることはできません。

どんなに熱心に伝えても、それを信じるかどうかは、その人自身が決めることです。

 

一方で、カルトは、信じこませるために、あらゆる手段を尽くします。

最初は大歓迎して、とことん親切にし、関係性を築き、心を開かせる。

心が開いたところで、実は…と教理を語り、信じ込ませる。

この過程を、マインドコントロールと呼びます。

すっかり一般的になった、マインドコントロールという言葉は、統一協会の実態を告発した「マインド・コントロールの恐怖(スティーブン・ハッサン著)」という本の中で、使われていたものです。

 

聖書の原則に立つならば、指導者に求められるのは、信徒の自立を促していくことです。

聖書に基づいて基本的な教理を教え、聖書から自分で判断できる力を養っていくこと。

マインドコントロールという、カルトの手法は、聖書が記す、神が求める信仰とは真逆のものなのです。

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