兄弟姉妹? 神の家族? クリスチャンが家族であるということは?
1. 出るべきか、とどまるべきか
所属している地域教会にとどまるべきか。出るべきか。悩んでいる人は少なくないようです。
満足のいく聖書の学びの機会がない、信徒間の人間関係がうまくいかない、牧師の牧会の姿勢に疑問がある…。中には、地域教会がカルト化してしまった、なんて深刻なケースもあります。
悩みの内容も、地域教会の状況もそれぞれ違いますから、他人が代わって答えられるものではありません。
重大な決断の前に、そもそも地域教会とはどういう場所なのか。確認しておく必要があると思います。
ひょっとすると、自分が地域教会に要求していることが的外れだった、なんてことがあるかもしれません。
クリスチャンは、一つの家族だと言われ、兄弟姉妹と呼び合います。
主の家族であるとは、どういうことなのか。そのことも合わせて考えました。
2. 教会とは、信者の群れ・共同体
大前提として、教会(オイコス)とは、福音を信じた人々、会衆のことです。建物のことではありません。
主イエスの命令に従い、エルサレムに集い祈っていた弟子たちに聖霊が降ったのが、教会の誕生の瞬間でした。
その日のうちに、使徒ペトロの説教に打たれて悔い改めた、3千人のユダヤ人が加わっています。
やがて、福音を信じた異邦人も加えられていきます。
このように、教会は、誕生の瞬間から、明らかに一つの共同体でした。
教会誕生の土台となったのが、神の民イスラエルです。
主は、アブラハムから一つの民族を起こし、契約を結ばれ、信仰共同体として育まれました。
約束に基づいて送られたメシアをイスラエルが拒んだために、福音は異邦人に伝えられましたが、イスラエルは見捨てられたわけではありません。
ペンテコステに、ペテロがヨエル書から引用して宣言したのは、世の終わりに、イスラエルが民族的に回心し、回復されるという神の預言でした。
来たるべき神の王国において、回復された神の民イスラエルと、福音を信じた人々の群れ・教会により、真実の永遠の信仰共同体が築かれる。
それが聖書の示すゴールです。
3. 普遍的教会と地域教会
教会についてはさらに、「普遍的教会」と「地域教会」の二つの側面があることを押さえておく必要があります。
「普遍的教会」とは、ペンテコステ以降、福音を信じたすべての人々を指します。
生きている人も、天に召された人も含みます。
「キリストの一つの体」とは、この史上唯一の「普遍的教会」のことです。
普遍的教会
真の信者の群れである 「普遍的教会」は、目には見えません。
まず、天に召された信者がそうです。
そして、地上の教会では、本当に信じた人と実は信じていない人が混ざっています。
誰が本当に信じているのかなんて、外からは判断がつきません。
地域教会
一方で、地域教会と言った場合には、いわゆる○○教会とか、○○集会と呼ばれるところ。
この地上に、目に見える形で存在するクリスチャンの群れ、共同体のことです。
聖書フォーラムも地域教会の一つです。
聖書では、エペソ教会とか、コリント教会のように、群れが存在する町の名で個々の地域教会が呼ばれています。
4. 悩みがあるのが、地域教会
福音を信じた人は皆、普遍的教会の一員になっており、世の終わりには、キリストの花嫁とされます。
これは何があろうと変わらない神の約束です。
真の信者だけの群れである普遍的教会には、問題などないでしょう。
私たちが実際に悩みを抱えるのは、間違いなく、この地上にある地域教会のただ中でのことです。
主イエスは、一連のたとえ話で、地域教会について警告されています。
大きく成長した地域教会に悪霊が棲みつくこと。パン種(偽りの教え)が入り込んで膨らむこと…。
使徒たちの手紙から分かるのは、地域教会が誕生間もないころから多くの問題を抱え、混沌としていた事実です。
目に見える教会・地域教会が問題だらけだというのは、主イエスの予告された通りになっているわけです。
5. 主の家族であるということ
使徒の時代からあった「兄弟姉妹」という呼びかけによく現れているように、地域教会は、主にある家族と言えます。
私たちの現実世界で、家族は、一番の助けになる一方、一番の悩みの種にもなります。
家族関係で苦しんでいる人は少なくありません。
主の家族である、地域教会も同様です。
パウロの赤裸々な手紙からも分かるように、使徒たちにとって、外からの迫害以上に辛かったことは、地域教会内のことでした。
自分の長所も欠点も知り尽くしている家族に、ごまかしは通用しません。
一方で、本当に成長していったなら、小さな変化に気づくのも家族です。
信仰の成長も同様です。いくらクリスチャンらしい言葉を並べても、内実が伴っていなければ無意味です。
信仰の停滞に陥り、「私は本当に救われているのか」と疑い悩む時、助けとなるのは、主の家族の存在です。
自分では気づけなかった、小さな変化を教えられ、励まされることがあります。
パウロは、教会の内をこそ裁きなさいと告げています。
時に痛いことをも言ってくれる、家族のような関係性がないところで、人は成長できません。
主の家族と言う言葉は、同時に覚悟も促します。
6. 決断から始まる ~主の家族の関係性~
真に家族と呼べる関係性を持っているのか。すべての信仰者が問われます。
信仰の歩みと共に突きつけられるのは、自分自身の家族関係です。
肉親との関係を放置して、主の家族との関係が築いていけるわけもありません。
地上の地域教会においては、誰もが成長過程の発展途上です。
当然、どこの地域教会であっても問題はつきません。
個々の信者に求められるのは、腹をくくって関わり合うその覚悟です。
主の家族として、覚悟をもって関わり合う場、群れとしての地域教会に属しているか。問われていると思います。
救いは、福音を信じるだけで与えられますが、信仰の成長は、主の家族との関わりなしにはありません。
救いの確信の深まりもまた、成長の結果です。
主の家族と、肉親である家族との一番の違いは、自発的な決断による家族だということです。
福音を信じて、主イエスの家族の一員とされた。その次に求められるのは、主の家族の関係性の中に身を置き続けることです。
神様は、どの地域教会を通して、私を主の家族の交わりに招かれているのか。
ある人は、とどまりつづけることを求められるでしょう。
また、ある人は、新たな群れを一から育むように促されるかもしれません。
聴きとり、応えて行動すること。そして、主の家族としての責任を相互に抱いて歩むことを、一人一人が問われています。