十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

兄弟姉妹? 神の家族? クリスチャンが家族であるということは?

 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

1.  出るべきか、とどまるべきか

所属している地域教会にとどまるべきか。出るべきか。悩んでいる人は少なくないようです。

満足のいく聖書の学びの機会がない、信徒間の人間関係がうまくいかない、牧師の牧会の姿勢に疑問がある…。中には、地域教会がカルト化してしまった、なんて深刻なケースもあります。

悩みの内容も、地域教会の状況もそれぞれ違いますから、他人が代わって答えられるものではありません。

 

重大な決断の前に、そもそも地域教会とはどういう場所なのか。確認しておく必要があると思います。

ひょっとすると、自分が地域教会に要求していることが的外れだった、なんてことがあるかもしれません。

 

クリスチャンは、一つの家族だと言われ、兄弟姉妹と呼び合います。

主の家族であるとは、どういうことなのか。そのことも合わせて考えました。

 

2.  教会とは、信者の群れ・共同体

大前提として、教会(オイコス)とは、福音を信じた人々、会衆のことです。建物のことではありません。

主イエスの命令に従い、エルサレムに集い祈っていた弟子たちに聖霊が降ったのが、教会の誕生の瞬間でした。

その日のうちに、使徒ペトロの説教に打たれて悔い改めた、3千人のユダヤ人が加わっています。

やがて、福音を信じた異邦人も加えられていきます。

このように、教会は、誕生の瞬間から、明らかに一つの共同体でした。

 

教会誕生の土台となったのが、神の民イスラエルです。

主は、アブラハムから一つの民族を起こし、契約を結ばれ、信仰共同体として育まれました。

約束に基づいて送られたメシアをイスラエルが拒んだために、福音は異邦人に伝えられましたが、イスラエルは見捨てられたわけではありません。

ペンテコステに、ペテロがヨエル書から引用して宣言したのは、世の終わりに、イスラエルが民族的に回心し、回復されるという神の預言でした。

来たるべき神の王国において、回復された神の民イスラエルと、福音を信じた人々の群れ・教会により、真実の永遠の信仰共同体が築かれる。

それが聖書の示すゴールです。

 

3.  普遍的教会と地域教会

教会についてはさらに、「普遍的教会」と「地域教会」の二つの側面があることを押さえておく必要があります。

「普遍的教会」とは、ペンテコステ以降、福音を信じたすべての人々を指します。

生きている人も、天に召された人も含みます。

「キリストの一つの体」とは、この史上唯一の「普遍的教会」のことです。

 

普遍的教会

真の信者の群れである 「普遍的教会」は、目には見えません。

まず、天に召された信者がそうです。

そして、地上の教会では、本当に信じた人と実は信じていない人が混ざっています。

誰が本当に信じているのかなんて、外からは判断がつきません。

 

地域教会

一方で、地域教会と言った場合には、いわゆる○○教会とか、○○集会と呼ばれるところ。

この地上に、目に見える形で存在するクリスチャンの群れ、共同体のことです。

聖書フォーラムも地域教会の一つです。

聖書では、エペソ教会とか、コリント教会のように、群れが存在する町の名で個々の地域教会が呼ばれています。

 

4.  悩みがあるのが、地域教会

福音を信じた人は皆、普遍的教会の一員になっており、世の終わりには、キリストの花嫁とされます。

これは何があろうと変わらない神の約束です。

真の信者だけの群れである普遍的教会には、問題などないでしょう。

私たちが実際に悩みを抱えるのは、間違いなく、この地上にある地域教会のただ中でのことです。

 

主イエスは、一連のたとえ話で、地域教会について警告されています。

大きく成長した地域教会に悪霊が棲みつくこと。パン種(偽りの教え)が入り込んで膨らむこと…。

使徒たちの手紙から分かるのは、地域教会が誕生間もないころから多くの問題を抱え、混沌としていた事実です。

目に見える教会・地域教会が問題だらけだというのは、主イエスの予告された通りになっているわけです。

 

5.  主の家族であるということ

使徒の時代からあった「兄弟姉妹」という呼びかけによく現れているように、地域教会は、主にある家族と言えます。

私たちの現実世界で、家族は、一番の助けになる一方、一番の悩みの種にもなります。

家族関係で苦しんでいる人は少なくありません。

 

主の家族である、地域教会も同様です。

パウロの赤裸々な手紙からも分かるように、使徒たちにとって、外からの迫害以上に辛かったことは、地域教会内のことでした。

 

自分の長所も欠点も知り尽くしている家族に、ごまかしは通用しません。

一方で、本当に成長していったなら、小さな変化に気づくのも家族です。

 

信仰の成長も同様です。いくらクリスチャンらしい言葉を並べても、内実が伴っていなければ無意味です。

信仰の停滞に陥り、「私は本当に救われているのか」と疑い悩む時、助けとなるのは、主の家族の存在です。

自分では気づけなかった、小さな変化を教えられ、励まされることがあります。

 

パウロは、教会の内をこそ裁きなさいと告げています。

時に痛いことをも言ってくれる、家族のような関係性がないところで、人は成長できません。

主の家族と言う言葉は、同時に覚悟も促します。

 

6.  決断から始まる ~主の家族の関係性~

真に家族と呼べる関係性を持っているのか。すべての信仰者が問われます。

信仰の歩みと共に突きつけられるのは、自分自身の家族関係です。

肉親との関係を放置して、主の家族との関係が築いていけるわけもありません。

 

地上の地域教会においては、誰もが成長過程の発展途上です。

当然、どこの地域教会であっても問題はつきません。

個々の信者に求められるのは、腹をくくって関わり合うその覚悟です。

主の家族として、覚悟をもって関わり合う場、群れとしての地域教会に属しているか。問われていると思います。

 

救いは、福音を信じるだけで与えられますが、信仰の成長は、主の家族との関わりなしにはありません。

救いの確信の深まりもまた、成長の結果です。

 

主の家族と、肉親である家族との一番の違いは、自発的な決断による家族だということです。

福音を信じて、主イエスの家族の一員とされた。その次に求められるのは、主の家族の関係性の中に身を置き続けることです。

 

神様は、どの地域教会を通して、私を主の家族の交わりに招かれているのか。

ある人は、とどまりつづけることを求められるでしょう。

また、ある人は、新たな群れを一から育むように促されるかもしれません。

聴きとり、応えて行動すること。そして、主の家族としての責任を相互に抱いて歩むことを、一人一人が問われています。

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