十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

「さんび」について とことん聖書から考えた

2023/05/25
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

はじめに

賛美歌、聖歌、ゴスペル、ワーシップ…。呼び方も、曲調も、スタイルも様々ありますが、この記事では、旋律に乗せた歌としての賛美を全部まとめて「さんび」として記していきます。

 

歌による「さんび」は、礼拝に欠かせないものとなっています。

共に声を合わせてさんびすることで一体感を得られたり、メッセージを聴く備えができたり、「さんび」そのものに心を揺さぶられることもあります。

祈りの言葉も出て来ない、そんな苦しみの中で、「さんび」を通して、深く慰められ、励ましを受けた。そんな体験をされた方も多いでしょう。

 

一方で、「さんび」につきまとう危うさがあります。

「さんび」で有名になり、世界中に進出した教会で、指導者の衝撃的なスキャンダルが発覚したことがありました。

「さんび」を全面に押し出して、熱狂的に礼拝する教会が、実は教理的に逸脱していたり、カルト化していたという例は、決して少なくありません。

「さんび」の歌詞自体が、教理的に明らかに間違っている場合もあります。

やっかいなのは、そもそも、歌という表現のあいまいさから、グレーゾーンも広いこと。

どこまでならOKなのか。作詞、作曲者の信仰は、問題にしなくていいのか。そもそも、どこの誰が作ったのか、出自も分からない「さんび」は、どう考えたらいいのか。課題は尽きません。

そもそも、「さんび」とは何なのか? 「さんび」はどうあるべきなのか?
聖書から考えていきます。

 

1. 旧約聖書における「さんび」

賛美と訳されているヘブル語の言葉、いくつかありますが、共通しているのは、「讃える」という行為を指しているということです。

“神を讃える“ それが、賛美の源です。

 

イスラエル最大部族であり、ダビデ王を産み出し、メシアが誕生した、ユダ族。「ユダ」は、「主を讃える」という意味です(創29:35)。主をほめたたえることこそ、イスラエルの使命です。

賛美を意味する言葉として一番多く使用される「ヤーダー」は、「罪を告白する」という意味でも使われています(レビ5:5,16:21)。

罪を告白し、主の赦しを得、神を誉め讃える。賛美するという言葉は、礼拝の全体をも指していると分かります。

 

では、歌としての「さんび」についてはどうかというと、聖書の記述は、実は、とても少ないのです。

書かれた年代で言うと、最も古い「さんび」についての記述は、アブラハム以前の時代のものと言われるヨブ記にあります。

「神のみわざを覚えて賛美せよ。人々がほめ歌った、そのみわざを。ヨブ 36:24 」

ヨブ以前の時代から、「さんび」という行為がなされていたと分かります。

 

聖書で最初に、歌としての「さんび」そのものについて、はっきり記されているのは、出エジプト記15章1節です。

「【主】に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。出15:1」

エジプトを脱し、葦の海を渡ったイスラエルの民は、主を誉め讃えて歌いました。

 

次に、歌としての「さんび」が登場するのは、何百年も後、ダビデ王の時代まで下ります。竪琴の名手であったダビデが記した詩篇は、調べに乗せて歌われたものでした。

ダビデは、レビ人を訓練し、はじめて奏楽隊を組織しています。

神殿はまだ建設されておらず、奏楽隊は、契約の箱の前で、最初の「さんび」をささげました。(Ⅰ歴16:4) この「さんび」の中で歌われている内容が、「さんび」の本質を現しています。

「心に留めよ。主の契約をとこしえに。命じられたみことばを、千代までも。Ⅰ歴16:15」

「さんび」によって心にとめるべきは、神とイスラエルとの契約です。あくまでも中心にあるのは、神の御言葉・律法そのものだということです。

礼拝の中心は、神の御言葉であって、そこを外れてはならないのです。

 

奏楽隊は、まずレビ人(レビ族)から選ばれました。神への奉仕を使命とされたレビ人は、律法をイスラエルに教え、導く役割も担っていました。

「全イスラエルを教え導く、【主】に聖別されたレビ人たち」と、歴代誌第二35章3節にはあります。ヨシヤ王が宗教改革を行った場面です。

ダビデによって奏楽隊に選出された者たちについては、「竪琴と琴とシンバルに合わせて預言する者(Ⅰ歴25:1)」と記されています。奏楽隊は、単なる奏楽にとどまらず、神の御言葉を取り次ぐ預言者集団でもあったのです。

預言というと、何かトランス状態で語る不思議な言葉というような理解があります。しかし、聖書の中で、預言するということをそのような特殊な状況を指して用いているのは、サウル王が、預言を語ったという箇所くらいで、むしろ例外です(Ⅰサム10:11)。

基本的に、預言者とは、徹底して神の御言葉である律法を学び、律法に生きる者たちです。

最も多くのさんびを残したダビデが、どれほど深く律法を理解していたか、詩篇からよく分かります。イスラエルの歴史に精通し、律法を熟知していたのがダビデでした。

ダビデは、来たるべきメシアと神の国についても、数々の預言者たちにも匹敵する、驚くほどに具体的で精緻なことがらを預言として記しています。

奏楽隊の長で知られるアサフの歌も、詩篇にはいくつか収められていますが、やはり、聖書への深い造詣があったことを教えられます。

ダビデが組織した奏楽隊は、預言者集団であり、誰よりも熱心に律法を学び、聖書に精通した人々だったのです。

 

「さんび」の奉仕に用いられる者には、演奏の技術や技量以前に、神の約束を正しく理解し、聖書の御言葉を自分自身の内にしっかり根付かせていることが何より求められます。

 

2. 新約聖書における「さんび」

新約聖書でも、賛美するという言葉は、神を誉めたたえる信仰の姿勢そのもの、神への礼拝そのものを指して用いられています。

歌としての「さんび」の記述はというと、これもやはり旧約同様、記述は限られています。

 

主イエスは、最後の過越の食事を終えた後、オリーブ山に向かうときに弟子たちと共に賛美の歌を歌われています(マタイ26:30他)。

詩篇のいくつかを調べに乗せて朗唱することが、過越の祭りの慣習として行われていたようです。

 

使徒パウロは、シラスと共に捕らえられたとき、獄の中でさんびを歌っていました(使徒16:25)。

稀代の律法学者ガマリエルの弟子であり、幼い頃から聖書に深く親しんできたパウロです。詩篇を歌っていたと考えるのが最も自然でしょう。

 

使徒の書簡ではどうか。コロサイ人への手紙 3章16節にこうあります。

「知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」  エペソ5:19にも、同様の勧告が記されています。

ここから、初期の教会において、「さんび」が歌われていたことが分かります。「詩と賛美と霊の歌」とあります。詩篇など、旧約聖書の賛歌は当然含まれているでしょう。教会時代に新しい「さんび」が生まれて、歌われていたかどうかは、定かではありません。

このコロサイ3章16節では、まず冒頭に、「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい」と記されています。ここでも、さんびする者の前提は、御言葉がしっかり根付いていることです。

 

黙示録には、「新しい歌」が歌われる場面があります(黙5:9,14:3)。

「新しい歌」という表現は、旧約聖書でも、詩篇で5回(詩篇33:3他)。イザヤ書で1回(42:10)、出てきます。

前後の文脈から分かるのは、「新しい歌」は、来たるべき神の王国で歌われるさんびだということです。

黙示録では、大患難時代のさなかの天上で、栄光の主イエスの元に挙げられた信者たちによって「新しい歌」が歌われています。これは、神の王国の先取りです。

黙示録15章3節では、「モーセの歌と子羊の歌を歌った」とあります。

どんなものかは分かりませんが、律法(旧約聖書)に基づく歌、主イエスの教え(新約聖書)に基づく賛歌と考えることができます。

続いて記される賛歌の箇所では、「すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。黙15:4」と歌われています。

栄光のメシアが再臨し、全世界の王となられる。これはまさしく神の王国の「新しい歌」です。

このように、「新しい歌」は、すべての時代のすべての「さんび」を包括するものとも言えます。

 

3. 不信仰者たちの「さんび」

人類の音楽の起源については、創世記4:21にあります。弟アベルを殺し、流浪の身となったカインの子孫ユバルが、「竪琴と笛を奏でるすべての者の先祖」となりました。

殺人者カインの子孫から都市文明が生まれ、そこで音楽も誕生しました。トバル・カインという暴虐な権力者も現れています。

やがて、罪に満ちた人類は、大洪水によって、その文明もろとも全滅させられてしまいました。ノアと家族8人だけが生きのびました。

聖書は音楽を否定しているわけではありませんが、音楽自体がよいものとも記していません。音楽がよいものとして主に認められるのは、賛美として唯一の神にささげられる時だけです。

 

伝道者の書には、地上のむなしさを嘆く者が、むなしさのゆえに、「快楽を賛美する(伝8:15)」と告げる姿が記されています。神を賛美しない人の音楽は、むなしいだけです。

世の終わり、神は、すべての不信仰者を裁かれます。神を賛美しない、不信仰者の音楽も地上から消し去られます。イザヤは、こう預言しています。

「砂漠の日照りのように、あなたは他国人の騒ぎを抑えられます。暑さが濃い雲の陰で鎮まるように、横暴な者たちの歌は鎮められます。イザ 25:5 」

 

神は、人の心を見る方ですから、主にささげられる「さんび」は、心からのものでなければ意味がありません。

預言者エゼキエルは、偽りの信仰者たちに対する神の厳しい警告を告げています。

「あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌う恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない。エゼキエル33:32」

預言の多くは、ダビデの詩篇がそうであったように、何らかの調べにのせて朗唱されたのでしょう。

悔い改めを迫る厳しい警告も、不信仰者には、恋の歌のように、ただの心地よい旋律としか聞こえない、という痛烈な皮肉が、このエゼキエルの預言には込められています。

不信仰者を待ち受けるのは、「もう一人の預言者」、すなわち、メシアによる裁きです(エゼ33:33)。

 

4. 聖書が求める「さんび」とは?

聖書が一貫して重要視しているのは、神の御言葉である聖書そのものです。

ダビデが初めて組織した奏楽隊は、預言者集団であり、神の御言葉を取り次ぐことをこそ、第一としました。

詩篇のように、歌の形で告げられた預言も多くありますが、重要なのは、旋律ではなく、そこで語られている神の御言葉です。

音楽のルーツは、殺人者カインの子孫から生まれ、大洪水で滅びに至った都市文明です。神への賛美なき歌や音楽は、神の目には、むなしいものでしかありません。

 

神にささげるべき礼拝の中心は、常に、神の御言葉です。歌としての「さんび」は、御言葉を引き立たせるための手段以上のものではありません。

「さんび」がなくとも、御言葉さえあれば、礼拝は礼拝として成立します。

しかし、御言葉がなければ、「さんび」という歌や音楽だけで礼拝にはなりません。

礼拝の中心に御言葉があり、御言葉が正しく語られているか。 第一に問われます。

聖書の御言葉そのものが歌われている「さんび」もあります。

歌い手と会衆が、歌われている御言葉の意味を正しく理解した上で、さんびしているなら、「さんび」をメインとした礼拝も成立するでしょう。

 

私がさんびを選ぶ判断の基準にしているのは、二つのことです。

①正しい聖書理解に立ったものであること。
②教理的に逸脱している教会で作られたものでないこと。

 

 ①正しい聖書理解に立ったものであること。

「さんび」は、正しい聖書理解に立ったものでなければなりません。

今の教会時代であれば、主イエスの教えを礎とし、使徒の教えを土台とした教理にしっかり基づいていることが求められます。

 

 ②教理的に逸脱している教会で作られたものでないこと。

「さんび」を採用する時には、内容ともう一つ、生まれた背景も考慮する必要があります。と言っても、なかなか難しいことです。

今となっては、一体、どこの誰がどのような信仰的背景から作った「さんび」なのか、分からないものもたくさんあります。

私が、判断の基準にしているのは、今現在、明らかに教理的に逸脱している、異端、カルトの教会で作られた「さんび」かどうか。そのことが明らかなら、採用すべきではない、ということです。

私が、もっとも懸念するのは、人々が、そういった「さんび」を通じて、異端やカルト化した教会につながってしまうことです。直接的な被害が生じる恐れがあるのです。

 

音楽のルーツが罪に堕ちた都市文明であったように、音楽には、人の心を魅了する力があります。偽教師、偽預言者は、そのような音楽の力を巧みに利用します。

偽教師は、教理的に逸脱した教えであっても、音楽によって感動させて、人の心を揺さぶることができます。単に音楽と環境によって陶酔させた状態を、霊的な満たしだと言って、信仰を偽装することも可能です。

感動したかどうか、という個人的な体験を絶対化してしまうなら、たやすく偽教師の手におちてしまうでしょう。

 

どの「さんび」は良くて、どれは悪いのか。

誰かが太鼓判を押したから大丈夫、というものではありません。

正しく判断できるか、というところに、個々の信仰の成熟度が問われてます。個々人が、個々の地域教会、リーダーが、責任もって対処する必要に迫られています。

何より、聖書を深く学びつつ、確かに適応させる力を、一人一人が身につけて行くことが求められていると思います。

 

5. 「さんび」で礼拝を導くということ

御言葉を深く理解する信仰者によってささげられる「さんび」は、素晴らしい働きをもたらします。ある方のさんびリードに感動したことがあります。

その方は、御言葉に基づく「さんび」を力強く歌い、礼拝をリードされました。集う人々も、喜びと平安で満たされました。そして、私がメッセージを語るという段になったら、すっと退かれたのです。

単に演奏をやめたとか、ステージから去ったということではなく、ご自身の存在を消されたかのようでした。同時に、背中を押されたような感覚も私にはありました。

自転車レースの序盤に、オートバイがペースメーカーとして走ることがあります。ある程度スピードが乗るまで集団を引っ張って、役割を終えると、すっと退きます。そんな様子が思い浮かびました。

その演奏者は、会衆とメッセンジャーを、主の御言葉の前まで先導したところで、ご自身はすっと退かれたのです。

私が講壇に立たせられた時には、いつにもまして、私も、会衆も、御言葉を解き明かし、御言葉に心を傾ける備えができているのを強く感じました。

これが、真に礼拝者であるということなんだと、身をもって教えられた出来事でした。

 

使徒16章。獄中で歌っていたパウロとシラス。その後、地震が起き、獄に駆けつけた看守は、扉が開いているを見て、囚人が逃げ出したものと思い、自害を図ろうとします。

「私たちは、ここにいる、誰も逃げ出してはいない」と、看守をとめたのはパウロでした。パウロは福音を告げ、看守は家族と共に、福音を信じて救われたのでした。

この出来事でもっとも重要なのは、パウロのさんびでもなく、地震という奇跡でもありません。看守に福音が告げられ、信じた、ということです。

大切なことは、聖書が解き明かされ、福音が告げられることです。「さんび」は、その備えを導くものであって、それ以上のものではありません。

 

問題がある「さんび」だと分かっているのに手放せない、そういう状況があるとしたら、一体に何にしがみついているのか、問われます。

人は、個人的な経験に固執してしまうものです。感動した、という体験であればなおさらです。

私も、以前とても感動して、よく歌っていた「さんび」がありました。しかし、作った人が教理的に逸脱しており、その教会もカルト化していると知ってからは、一切歌っていません。

名残惜しく感じることもありません。本当に魂を揺さぶられる感動は、聖書の御言葉そのものにあると、身をもって味わわされてきたからです。

御言葉を何より第一に。その上で、歌としての「さんび」を通しても、おおいに主をほめたたえていきましょう。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

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