リベラル派クリスチャンの矛盾 正義を叫ぶ人にも潜む暴力性、逃れられない人の罪
目次
1. 一つの問いかけをきっかけに…
ある年の12月上旬のことでした。N牧師のメッセージ動画をSNSにシェアしたところ、A牧師から抗議のコメントがありました。
「彼は他の動画で同性愛を罪と言っていたが、撤回したのか」と言うのです。
わたしがシェアしたのは、同性愛について取り上げた動画ではありません。A牧師は、数年前にN牧師がサイトに上げた、同性愛についての一つの動画について問われてこられたのです。
A牧師の抗議に込められたメッセージとは、つまり、同性愛は罪だと言う者には、公に発言する権利は認めない、ということになるでしょう。言論そのものの封殺です。
意見があるならN牧師に直接伝えてはどうかと提案したところ、今度は、A牧師は私に対して、あなたも牧師であり、言葉について責任があるだろうと、問われました。責任という点は、わたしも、もっともなことだと受け止めました。
A牧師は、リベラル派のクリスチャンの立場です。わたし自身、どっぷり浸かっていた古巣ですから、身にしみているのですが、リベラル派と福音派では、罪、救いについての考え方そのものが違います。「〇〇は罪だ」と言ったときの意味合いも、全く変わってくるのです。
なので、私はまず、福音派としての立場から説明しようとしました。しかし、A牧師が言われたのは、聖書の言葉より命が大切だ、ということでした。
A牧師は、聖書の言葉によって人格を否定されてきた者の立場はあなたには分からないと言われました。神学的議論をしている間にも当事者は苦しんでいるのだと、そのようなことを伝えようとされたのだと思います。
何よりも命が大切だ。よく聞く言葉ですが、それを牧師の口から聞いたことに、わたしは強烈な違和感を覚えました。このように返答しました。
「イエスが十字架についたのも、弟子たちの殉教も、聖書の言葉を命より大切にしたからではないですか。」と。
イエスの十字架の贖いと復活が、預言の成就であったということをどう考えられるのか。聞きたかったのです。
それに対しては、「あなたは逐語霊感説の立場か?」という問いが、A牧師からの最後の返答でした。逐語霊感説とは、ようするに、聖書をそのまま信じているという立場です。
私は、原典において神が内容を保証しておられる神の言葉として、聖書を信じていることをお伝えしました。
神の言葉を第一としないならば、救い自体がぐらつきます。イエス・キリストがわたしの罪のために十字架で死なれ、葬られ、復活されたという福音を信じておられるのか、とたずねた私の問いに、A牧師からの返事はありませんでした。
リベラル派の神学では、聖書には、神が書かれたところと、そうではないところがあると言います。ではどこが真性の神の言葉かとなると人それぞれで、結局、個々の主義主張が聖書よりも優先されています。
2. 無自覚な暴力が日常化しているとしたら…
そこにコメントされたのが、B牧師。A牧師もそうですが、B牧師は、私も卒業した同じ神学校の出身です。
私の立場が変わったのは残念だと言われ、「来週なさるという投稿を冷静に見守れたらいいのですが…」と書かれていました。私は、A牧師のやりとりの中で、同性愛についての自分の見解を載せますと話していました。
B牧師の言葉を続ければ、「私が感情的になったらどうなるか分からないぞ」とも受け取れます。体のいい脅しとも言えますが、こういうやりとりは、残念ながら、リベラルの、特に社会派と呼ばれる人々には少なくありません。
実際に、わたしの属していた教団の総会では、叫んだり、議長席に詰め寄ったり、暴力的なヤジを飛ばす、という光景は珍しくありませんでした。
何より私が問題を感じるのは、リベラルの、特に社会派に属する人々は、他者の暴力には激しく抗議しながら、自らの暴力性について極めて無頓着に見えるということです。
交渉に訪れた役場の窓口で担当者に向かってどなるとか、差別発言をしたという相手に対して語気も荒く糾弾するとか。ぶつけられる側にしてみれば、それは暴力以外の何ものでもありません。
私自身も、糾弾する側にいたことがあります。あれで一体何が相手に伝わっただろうかと思い返すと、なんとも苦い思いです。
私はB牧師に、私の感じる問題点を伝えました。
さらに、そのような暴力的なコミュニケーションを、牧師である方が日常的に行っているのであれば、懸念を覚えます、ともコメントしましたが、この問いに対するB牧師からの答えはありません。
3. リベラルの人々が抱える暴力性を考える
クリスチャンのリベラル派とは、世間で言うリベラルの立場をさらに濃縮したような印象があります。抱える問題点も共通しているように感じます。
社会正義を声高に叫ぶけれど、自らの暴力性には無頓着。リベラルの少なくない人々が抱える深刻な問題であると思います。
日本でも、世界的にも、排外主義が猛威を振るっていますが、この状況を招いた原因の一つはリベラルの側にあるのではないかと、私は考えています。
リベラル派の人々が無頓着にふるってきた、有形無形の暴力に対する反発という側面も強いのではないかと思うのです。
民族差別的なヘイトスピーチをする人々を擁護する気はまったくありませんが、私は、リベラルの人々の言動の方がむしろ、気になって仕方ないのです。
○○ヤメロ!!、〇〇政治はゆるさない!! そう叫んでも叫んでも、相手側の支持が揺らぐどころか、むしろ、強まっているのは、なぜでしょうか?
リベラルの側の人々が抱えている無自覚の暴力性が、相手の側の暴力をさらに強める結果をもたらしてはいないでしょうか。
相手側の暴力性も問題ですが、同じことをリベラルの人々が行えば、自らに大打撃が返ってきます。はるかにダメージは大きいのです。
なぜでしょうか?
リベラルとは、人間の理性や努力で理想社会を実現できると信じている立場であると思います。人間の本性は善であるという立場ですね。
人間は善だと信じているリベラルの人々が自らの暴力性を露見する。それは、大きな矛盾であり、結局、自己否定の命取りになるということです。
理想論を唱えながら二面性があるというのは、今、多くの人々に一番嫌われることだと思います。
たとえば、同じ国会議員の不倫でも、政権を問い詰めるリベラル側の議員の不倫が大きく問題にされるというのは、その主張していることに照らし合わせれば、無理のないことではないでしょうか。
実質的な中身に大差ないならば、外と内の矛盾が小さい方を選ぶ。その内容に関わりなく、とにかく、裏表なく一貫していることが評価の基準とされる。社会全体で、そういう傾向が強くなっているような気がします。
この、裏表のなさを評価するという態度は、一方で、露骨な差別発言をする人々が正直だと評価されたり、倫理的な問題に対して開き直る人がブレない人だと支持される、というような歪みを生み出しています。
極端に言えば、裏のある善人よりも、裏表のない悪人の方が受けるわけです。
なぜ、そうなってきてしまったのか、ということを、私たちは、自らの身を振り返って点検する必要に迫られているのではないでしょうか?
正論を唱えるのであれば、当然、それに値する生活態度を求められます。だから、リベラルの側に立つ人ほど、その主張に適う高潔さを備えていなければなりません。
しかし、実際には、ある側面では、素晴らしい働きをしている人が、別な面では、重大な問題を抱えているということは珍しくありません。
平和活動の一人者と言われる人がセクハラを常習していたとか、社会的弱者の側に立って闘うと言いながら、自分より弱い立場と見ると途端に支配的になるとか…。
パワハラ対策の組織を作った動機が立場の違う特定の教会を狙い撃ちするものだった、という事実を責任者から聞いて、唖然とした経験があります。
リベラルのクリスチャンの中には、私たち人間の抱える矛盾が凝縮しているようにさえ思えます。
4. 実は、命ではなく、主張が一番なのではないですか?
日本でも、久しく右傾化ということが言われています。しかし、右側が強くなったというよりはむしろ、リベラルの弱体化、劣化と言った方が実態に合うのではないかと私は考えています。
右傾化、リベラルの弱体化が、一気に強まったのは、北朝鮮による拉致被害が明らかになって以降ではないかと感じます。
それまで、左派のほとんどの人は、家族が拉致されたという訴えをまともに取り扱っていなかったわけです。
熱心に社会活動に取り組んでいる人々が、あんなことはありえない、妄想だと話すのを、神学校時代に私も聞いて、やっぱりそうだよな、ありえないよな、と納得していたことがあります。
事実だと明らかになったときに、では、真摯に過ちを認め、態度を改めた人がどれほどいたのでしょうか?
日本は戦前に、もっと悪いことをしていたではないか。という主張もよく聞きましたが、それとこれとは個別に取り扱うべき問題です。
多くの人々が抱いたのは、結局、イデオロギーの、主義主張の問題でしかなかったのだ、ということでしょう。
相手の過ちや罪に対しては厳しく迫るけれど、自らの過ちや悪に対しては無頓着どころか、意識的にごまかし、仲間内はかばう。そういう不誠実さが、今の状況を招いた大きな原因の一つなのではないかと、私は思えてなりません。
前述のA牧師で言えば、命が何より大切と言いながら、命に関わるはずの重要な議論を途中で簡単に放り出しています。
またA牧師は、直接N牧師に意見してはどうかという私の提案に対して、クリスマス明けに連絡するつもりだ、というコメントをされていました。
これは、クリスマスという宗教行事を命の問題より優先しているということではないでしょうか。
明らかな自己矛盾を引き起こしていると私は感じます。
しかし、命が大切というのは、実は、自分の命が一番大切、自分が一番可愛い、という意味だと理解するならば、矛盾でもないかもしれません。
自分の命が一番大切、というのは、命が大切、という人の当然の帰結でもあると思います。
本当に、他者のために自分の命をも投げ出せる人は、命より大切なものがあると知っている人です。
イエスが、十字架で私たちの罪のために死なれた。
それは、神の言葉、神の約束が何よりも大切であると、理解されていたからこそでした。
神の言葉に基づく、神の約束だけが、人類を救いに導く。
弟子たちもまた、それを信じたからこそ、命をかけて福音を伝えていったのではないでしょうか。
5. リベラルの、罪に対する無力さを思う
リベラルの人々が抱える最大の問題は、人間の抱える罪の問題に対して、あまりに理解が浅いということです。
人間の理性に信頼を置くリベラルは、人間の悪に対して驚くほど無力です。
リベラルの、悪に対する無力さを、排外主義の吹き荒れる、この時代が証明しているのではないでしょうか。
リベラルの根底には、神を否定した人間中心主義(ヒューマニズム)があるとわたしは理解しています。
キリスト教のリベラル派では、人間の理性が聖書以上の権威を持ちます。つまり、人が神になっているということです。
世界大戦以前にも、欧州を中心にリベラルの価値観が浸透していました。神なき世界観が、主流になっていたのです。
カウンセリングを学び直していた頃に、講義で聴いて驚愕した話があります。20世紀初頭に欧州で行われたという実験のことです。
孤児院の赤ん坊を二つの組に分けて、一つの組には愛情込めて世話をし、一つの組には愛情を注がず、機械的に世話だけをした。すると、後者の組の赤ん坊は廃人のようになってしまった。この実験の結論は、赤ん坊が成長するには愛情が必要ということです。
絶句しました。赤ん坊に愛情が必要。そんな当然のことを証明するために、赤ん坊を犠牲にした、ということが信じられませんでした。
こんな実験が当然のごとく行われる時代だったからこそ、二度にわたる世界大戦が起きたのだと腑に落ちました。
ナチスは、ユダヤ人に対するホロコースト以前に、障害者、重病人の大量虐殺を行っています。
障害者、治る見込みのない重病人が各地の病院に併設された施設に送り込まれ、到着直後、シャワー室と称したガス室に誘導され、殺され、遺体は速やかに焼却されました。数十万の人々が殺された秘密裏の政策が、ホロコーストの前準備となりました。
耳を疑うのは、多くの医療関係者が積極的に、この殺害に関与していたということです。障害者や重病人は、殺した方が社会のためだ。それが、当時の価値観の主流だったということです。
人間中心のヒューマニズム、進化論に基づく優生思想、人間の理性に絶対の信頼を置くリベラリズム…。ヒットラーはただ、その総仕上げをしたにすぎないのだと思います。
歴史は繰り返すと言い、多くの人がいつか来た道をたどっているのではないかと憂いています。繰り返されているのは、排外主義や軍国主義だけなのでしょうか。
行き過ぎたリベラルによる倫理的退廃があり、それに対する反発を利用して排外主義が巻き起こる。その両者が、セットで繰り返され、悪に用いられているのではないでしょうか。
最も重大な問題は、人間の理性に過度の信頼を置き、人間の悪を軽視するリベラルという思想そのものにあるのではないか。わたしはそう考えています。
日本でも同様で、戦前、すでにリベラル派が中心となっていたキリスト教会には、軍国主義に抗う力はほとんどありませんでした。無理からぬことだと思います。
殉教に際してまで信仰を貫くというのは、人の意思の力でできることではありません。自分の罪を思い知り、ただ神にだけ信頼する、その時、神ご自身が助けてくださってはじめて可能になることです。
6.避けられないのは、人の罪という普遍的な問題
リベラルのクリスチャンの中に、命が大切だと言いながら、本当に人生をかけて、その課題に取り組んでいる人々がどれだけいるでしょうか?
自分の立場や生活を守るために汲々としている人が、ほとんどなのではないでしょうか。
結局、そこで行われていることは、極めて小さな縄張りの中での、パワーゲームに過ぎないのではないでしょうか。
何かの社会問題に取り組むことが、信仰の証しになっている牧師や信徒、最新の差別問題に取り組むことで、自分の先進さをアピールする研究者。
そんな人々のただ中で、利用されている、と感じている当事者は少なくないと思います。私自身、実際に、当事者の口からも何度もそんな声を聞きました。
リベラル派のただ中で、どうしようもない矛盾を感じ続けていましたが、その矛盾は、私自身の内にも拭いがたくあるものでした。
リベラルのクリスチャンに対する批判を連ねてきましたが、これは、私自身に対する批判でもあります。
ここに書いたことは、リベラル派のクリスチャンだけの問題とは思いません。私たち人類すべてに関わる普遍的な罪の問題であると考えています。
罪とは、欠損だと思います。自分自身ではどうにも埋めようのない欠けを誰しもが抱えている。その欠けは、人によって、性的なことだったり、金銭的なことだったり、権力に関することだったり様々です。
人それぞれ欠損が違うので、他者の欠損は理解しがたく、語気も荒く非難するわけですが、自分の欠損となると、罪の意識すら持っていなかったりするわけです。
私たちは、誰しも、自分ではどうしようもない欠損を抱えている。私も、同じく、自分では解決できない罪を抱えている。
そのことに気づかされたときにはじめて、私は、キリストが私の罪のために十字架につかれたということの本当の意味を理解しました。
人類は、誰しもがどうしようもない罪を抱えている、死を避けられない死刑囚である。もしも、わたしの身代わりに罪を負ってくださる方がいるとするなら、それは、完全に神であり、完全に人である、イエス・キリストをおいて他にはいない。
まったく罪がないにも関わらず、十字架にかけられて死に、墓に葬られ、しかし、神の子であるがゆえに、死を打ち破って復活された。イエス・キリストだけが、わたしを死に至る罪から贖い、救ってくださる唯一の方である。
ただ、そのことを信じ、この方のことを伝えていくことだけに、人生を献げることを促され、ようやく、その道を歩み始めたところです。
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Comment
「リベラル派と福音派では、罪、救いについての考え方そのものが違います。「〇〇は罪だ」と言ったときの意味合いも、全く変わってくるのです。」のリベラル派の罪、救いについての考え方を教えてください。罪は人を傷つけることと書いてありますが、救いは人を傷つけない人になることでしょうか。また「〇〇は罪だ」と言ったときの意味合いとは例えば、同性愛は罪だと言ったとき、人を傷つけることではないと言う意味合い?よくわからないのですが、教えてください。
リベラル派で、「罪」と言ったときには、世間一般で言われる「罪」と、大差ありません。
つまり、人を傷つける、とか、犯罪を犯す、とか、そういう意味になります。
リベラル派での「救い」も同様ですね。慰められた、とか、助かった、とか、そういう意味で使われる場合が多いように感じます。
「永遠の滅びからの救い」「神の怒りからの救い」が、聖書に基づく、本来的な救いの意味ですが、リベラル派の場合には、「滅び」や「神の怒り」ということ自体、曖昧だったり、無視されているので、「救い」の概念も曖昧になるのだと思います。
そんなに同性愛について罪に定めたいなら止めませんが、そのことで同性愛者が自殺した場合には、その血の責任をあなたたちの一派などが背負うことになるでしょう。少なくとも、リベラルや左派などと分類されている一派は、過去の間違いがあるにしても、訂正してきていますから、自殺した同性愛者の血の責任をこれからは負うことはない。様々な方面からの批判を受けても頑なになるだけで理解しなかったあなたたちが血の責任を負う以外ないではありませんか。
それに、石打にされようとしていた女と、石打にしようとしていた群衆を前に、イエス様は何と発言し、女に何といったんでしたかね? 「私はあなたを罪に定めます。」でしたかね?
それと、新改訳聖書のレビ記18:22またはレビ記20:13のどこに、「女が男と寝るように男と寝るなら」もあるんですか? 同性間性交と書いている記事がありましたが、その記述を見る限りは異性愛男性による男性間性交くらいにしか解釈不能です。そもそも、ゲイが、どうやって女と寝るように男と寝れるんでしょうかね?
その自殺の責任を他者に負わせることはできないと思います。
石打の場面でのイエスの発言は、厳格に律法の定めにのっとったものです。姦淫に対しては、明確に死罪が定められていました(申22:21)。
ただし、死罪を確定するためには、複数の証人が必要です(申17:6)。有罪が確定するとまず、証人が石を投げました。証人に負わされた責任を示すものです。
現場を押さえなければ姦淫は成り立ちませんが、この場面では、女性だけが裁かれようとしています。異様です。相手の男性はどこに行ったのでしょうか? それが証人です。
証人として立った者たちが、この女性と性的関係を持っていたのです。イエスはそれを見抜き、罪を犯していないものから石を投げよと言われました。事実を見透かされた証人たちは、なすすべなく、その場を立ち去るしかありませんでした。
証人がおらず、女性の姦淫罪は成り立たなかった。それがこの事件の結果です。
裁判は成立しませんでしたが、女性に罪がなかっわけではありません。
「これからは罪を犯してはなりません」と、イエスは、この女性の罪をはっきり指摘しています。彼女がイエスをメシアだと信じたなら、その罪はゆるされたでしょう。
律法は、イスラエルの男性を対象に記されています。神の契約の主体は、各々の家長たる男性です。ですから、律法の諸規定においては、男性形の主語になっています。
前提として、律法において、結婚した男女以外のすべての性行為は明確に禁じられており、女性同士の性行為も当然含まれます。
「男が女と寝るように男と寝る」というのは、男性同時の性行為についての当時の湾曲的表現です。同様の湾曲的表現として、「女たちは自然な関係を自然に反するものに替え(ローマ1:26)」とあります。これは、女性同士の性行為の湾曲的な表現です。
聖書を、現代人の感覚で勝手に読み解くならば、とんでもない見当違いに陥ります。聖書全体の文脈に従い、文化的、言語的、歴史的背景から読み解くならば、あなたが指摘される点への答えは明確です。
私は福音派の両親のもとで生まれました。小さい頃から福音派やペンテコステ派の教会へ行っていました。親は聖書やキリスト教の価値観しか認めない人でした。それでしか私を尊重してはくれませんでした。いじめ、受験、何一つまともなことを提案してくれず、家でも学校でも私は孤独でした。決して落ち着ける場所ではありませんでした。そのため、小さいころから親、牧師、聖書を疑うようになりました。
1995年に起きたオウム真理教事件が契機となって、数年後にキリスト教から決別することを決意しました。受洗をしていなかったせいか、案外簡単に離れることができました。でも親と同居していたので、私に対するクリスチャン特有の上から目線、蔑むような言動、自分は罪許された、だから異教徒や無信仰者に何をしても構わない的な言動にいい加減腹が立ちました。中年に差し掛かったころ、歎異抄を読んで思うところがあり、本願寺派の寺院に通って、法話を聴くようになりました。40年以上苦しめられたキリスト教を離れて、これからは浄土真宗を心のよりどころにしようと決めて生きているものです。
たまたま検索をしていたら発見いたしました。私のような人に対してですが、
「A牧師は、聖書の言葉によって人格を否定されてきた者の立場はあなたには分からないと言われました。神学的議論をしている間にも当事者は苦しんでいるのだと、そのようなことを伝えようとされたのだと思います。 何よりも命が大切だ。よく聞く言葉ですが、それを牧師の口から聞いたことに、わたしは強烈な違和感を覚えました。」
ブログ主は牧師であるにもかかわらず、私のように聖書の言葉で人格を否定されてきた人たちの存在を否定するのでしょうか? 読んでいて私はブログ主の発言に違和感を感じました。あなた方福音派と称する連中の心ない言動によって、私はいまだに心に大きな傷を負いながら生きています。おそらく阿弥陀様の身許に行くまで、その傷は消えないと思います。何よりも命が大事で何が悪いのでしょうか?もし命が大事でないというのであれば、クリスチャンである、牧師であるという以前に人間として決して許されることではなく、厳しく世間から断罪されるべきだと思います。
この件について、ブログ主からの回答を要求いたします。ちなみに私には聖書や神などを振りかざしても、まったく無意味です。完膚なきまでに叩き潰します。この年になってから某有名マンモス大学の通信教育部史学科に在籍していました。(現在は事情があって一旦退学していますが、復学を予定しております)。なので世間一般の大学レベルの知識で回答をお願いいたします。当然、リベラル神学、史的イエスについても知っております。大学史学部で史的イエスがアカデミズムでは当たり前と習った以上、それに従うのがアカデミズムの側に身を置く人間としての当然の振舞です。もはや福音派などはカルトと同じぐらいの認識しか持っておりません。知らかかったとはいえ、かつて自分がそこにいて、その程度の人間を「師」だの「兄弟姉妹」だのと思ったことについて、斬鬼の念に堪えません。
「欧州を中心にリベラルの価値観が浸透していました。神なき世界観が、主流になっていたのです。」
『隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン 小岸昭 人文書院』の中で小岸氏は盛んに17世紀以降、ヨーロッパでは急激な近代化とキリスト教離れが進んでいったことを示し、クリストヴァン・フェレイラの棄教を、時代を先取りした近代的な知識人故としております。それまでさんざんヨーロッパ史で魔女狩り、異端審問、植民地侵略、異教文化破壊を行ってきた結果がそうなったのです。驕れる者も久しからず、ただ春の世の夢のごとし、猛きものもついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じです。小岸氏はこの本でキリスト教の暴力性を徹底的に批判しております。「それはカトリックのことだから」「時代がそういうじだいだったから」では言い訳にしか聞こえません。本件について、また小岸氏の著作に対しての明確な回答を求めます。
「カウンセリングを学び直していた頃に、講義で聴いて驚愕した話があります。20世紀初頭に欧州で行われたという実験のことです。
孤児院の赤ん坊を二つの組に分けて、一つの組には愛情込めて世話をし、一つの組には愛情を注がず、機械的に世話だけをした。すると、後者の組の赤ん坊は廃人のようになってしまった。この実験の結論は、赤ん坊が成長するには愛情が必要ということです。
絶句しました。赤ん坊に愛情が必要。そんな当然のことを証明するために、赤ん坊を犠牲にした、ということが信じられませんでした。
こんな実験が当然のごとく行われる時代だったからこそ、二度にわたる世界大戦が起きたのだと腑に落ちました。」
私は今、そういう臨床心理士のもとで今までの人生の振り返りを行っております。聖書やキリストだけで人間の複雑な心理を解明できるのでしょうか? この複雑化した世の中の現実問題に対応しているのでしょうか?むしろ人間の心の解明を放棄して、案の定上から目線ででかい口叩いてたわごとを吐いているだけのように思います。
であるなら、ドイツ農民戦争でとったルターの態度については? 聖バルテルミの大虐殺については如何に?
異端審問の名のもとにユダヤ人を大量に火あぶりにしたことについては如何に?
ナチスドイツを批判する前に、自分らの過去の悪行の数々を自己総括するべきだ。
コメント、ありがとうございます。
アカデミズムとおっしゃるのであれば、まず、相手の論についてよく読み込むことが求められるのではないでしょうか。
私の背景、考え、立場については、読まれた回数の多い記事から順に10個ほど読んでいただければ、主要なところは理解していただけるのではないかと思います。
私の経路は、あなたとは逆です。日本人的な、仏教、神道の文化的、精神的な影響の元で育ちました。進化論を信じ、本をよみあさる理屈っぽい子どもでした。
学生の頃は、アカデミズムのリベラルな立場に首を突っ込み、一時期社会運動に熱を入れたこともありましたが、平和を声高に叫ぶ人の暴力性や支配性を突きつけられ、限界を感じる中でキリスト教と出会い、いわゆるリベラルの信仰と出会い、受洗してクリスチャンとなり、親の反対を押し切って勘当状態で、神学校に進み、牧師となりました。
教会内の様々な矛盾に悩まされる中で、聖書をそのまま信じる信仰へと導かれ、本当の意味で、福音をそのまま信じたのが10年ほど前になります。在籍していた教団を追い出される形でやめ、僻地の町で、教会の新規開拓を始めて7年目です。
聖書をそのまま信じているという意味では、福音派ということになるでしょう。福音派やペンテコステ派のクリスチャンと交わりを深める中で驚愕させられてきたのは、カルト化している教会が少なくないという事実です。
多額のお金を騙し取られた方の相談を受けて、カルト化した教会の牧師と対決したこともあります。そんな経験から、教会のカルト化に警鐘をならす記事もいくつも書いています。聖書の権威をふりかざしつつ、牧師や指導者が神に成り代わり、信徒を支配し、カルトのマインドに染まった親が、さらに子どもを支配する。そんな状況から、ある親子を脱出させる手助けをする経験もありました。
以来、カルトに関わる専門家の方々とも連携して、歩んでいます。
あなたが、苦しまれてきた教会にも、あるいは、そこに関わり続けておられるご両親やご家族にも、同様の問題があるということなら、何か助けになれることもあるかと思います。
私は、教会やクリスチャンが正義だなどとは、まったく思っていません。教会もクリスチャンも罪を犯します。世の基準から見ても、まさか、ということがらに私自身も度々直面してきました。教会やクリスチャンが罪を犯すと、むしろ、世の中一般よりもひどい結果を招くことがおうおうにしてある、と認識させられています。
キリスト以外に、正しい人など誰もいない。聖書ほど、人間の悪を赤裸々に記した書物はない、それが私の実感です。聖徒と呼ばれる人々の、とんでもない過ちが、そのままに記されています。
所詮、罪人の集まりでしかない地上の教会に、人類の問題は解決できません。聖書の本来の教えは、極めてシンプルで、他力本願の極みです。人間には、本当の平和など作れない。すべての人間は滅びゆく、死に定められた死刑囚であり、死刑囚が死刑囚の身代わりにはなれない。だから、人となられた神、キリストが身代わりになるしかなかった。死を打ち破って復活され、天に上られたキリストが再び帰ってくる時に、キリストによって、世界は、はじめて、平和な世界に変えられる。
私は、そのことを信じて、人生を賭けています。
キリスト教会の歴史について、あなたが指摘されたことをわたしも否定しません。一方で、にも関わらず、教会が存続してきたという事実は、奇跡だとも感じます。
教えを歪め、自分自身を神として他者を支配する者が現れ、その教団教派が全体が道を外れるようなことがあっても、それに異を唱え、命を省みず真理を訴える人が起こされてきました。支配者の支配の道具としてある地域に持ち込まれたキリスト教が、逆に、抑圧された人々の力となって、そこに真実のキリスト教が回復する。そのようなダイナミックさも、キリスト教が保ち続けてきたものではないでしょうか。
あなたが指摘された通り、キリスト教は、17、18世紀以降は、政治的、社会的影響力を失うばかりでした。
そこからもはっきり言えることですが、人類史上最悪の大虐殺は、キリスト教が影響力を失いきった世界で起こりました。自らを神格化したヒットラーのナチス・ドイツ以上の大虐殺を引き起こしたのは、神をも恐れぬ無神論者たち、スターリンであり、毛沢東であった、それは歴史的事実であるのみならず、ウクライナでの虐殺、ウイグル人へのジェノサイドと現在進行形で続いています。
イエスは、教会が大きく増え広がるが、偽りの教え(パン種)が入り込むことを預言していました。また世の終わりには、愚にもつかない作り話に、多くの人が惑わされるということも告げられています。
今の世界とキリスト教界の状況は、まさに、イエスの指摘通り、ということになります。
これからますます世界の闇は深まるでしょう。キリスト教界も混迷を極めていくでしょう。救いは、イエス・キリストにしかない。私は、ますますその確信を強められています。
初めてこちらのHPにたどり着いた者です。
最近、安倍元首相がお亡くなりになり、リベラルな方たちが国葬に反対し、朝日新聞の川柳で故人を揶揄し、死体に鞭を打つというような暴力的なリベラルの考えに恐怖を感じています。
政治的にも、教派的にもリベラルの友人がいます。
政教分離という言葉はどこへやら、教会で政治の話をし、アベ政治を許さないといったような個人の思いを、兄弟姉妹に話して回るような人がいます。
その人はSNSなどで、国葬に反対署名のURLを貼り付け、同じ考えの方たちがコメント欄で、モリカケサクラで盛り上がっているのを見て、本当に残念な気持ちになってしまいます。
人がいるだけ、その考え方も様々で、100%同じ考えの方というのはいないからこそ、互いに容認し合い、受け入れる、ということが大切だと思うのですが、自分の考えにそぐわないという人は悪、排除、無視、というようなことが見受けられることに心痛の思いです。
個人個人の思いはそれぞれでしょうが、それを、他人に強制するのは違うのではないかと思っています。
「命より大切なもの」という言葉にも、私はハッとされました。
今現在、ウクライナ侵攻が続いていますが、命より大切なものがなければ、ウクライナの人たちは戦うことはしないでしょう。
命が何よりも大切であれば、逃げればいい。国外逃亡でもすればいい。
しかし、命を賭しても守りたい何かがそこにはあるのだと思います。
その何かはそれこそ人それぞれなのだと思います。
もうすぐ5ヶ月、命よりも大切なものを守り切るその時はまだかと祈るばかりです。
こちらのコメント欄で、強い口調でのコメントを見ましたが、上から目線という言葉に思わず目が点になりました。
私が感じましたのは、高圧的な文面で、相手を敬う心遣いもなく、上から目線は一体どっちなのかと思わずにはいられませんでした。
そこで、自分も気をつけなくては、と思いつつ、こちらにコメントさせていただきました。
まだ数ページしか見ていませんが、感銘を受けています。
どうぞあなた様のお働きが主に祝福されますようにと祈っております。
感謝を込めて。
コメントありがとうございます。
世のこと、特に政治については、たとえ、同じ信仰的立場に立つクリスチャンでも、違いがあって当然だと思います。
聖書とは余りにも隔たった現実の中で、何を選ぶのか、ということですから、どちらがましか、という悩ましい選択しかありません。
にも関わらず、政治的な主張をすることが一番になってしまっているなら、それこそ問題ですよね。
「信仰はどうした?」と、主に問われているのを感じます。
主イエス・キリストは、私の罪のために十字架にかけられ、死を打ち破って復活された。この福音に堅く立ち続けていくことの大切さを、痛感させられる日々です。