Q:どこまで助けてあげたらいいですか? 依存と支配 自立と共生
目次
Q:困った人を助けてあげるのが教会なんだと、いろいろ手伝ったり、必要なものを貸したりしてきたのですが、だんだんしんどくなってきて…。
1.親切は、もちろん尊いこと
困っている人を助けるのは、もちろん大切なことです。
主イエスは、「あなたの隣人を愛しなさい」と命じられました。
有名な「よきサマリア人のたとえ」では、盗賊に襲われた人を助けたのは、神に仕える祭司や律法学者ではなく、異邦人同然の嫌われ者のサマリア人でした。
このサマリア人こそ真の隣人だ。というのがこのたとえの驚きの結論です。
飢え乾き、助けを求めている人を見ながら素通りするなら、それは、本当の愛なのかと問われます。
2.親切にしなきゃいけない?
愛の実践を説きながら、「あんなにしてあげたのに」と不平を言う人がいました。
この人は、恩を売って、義理で人を縛り付けていただけでした。(参照:「それが愛だと言われても」)
義務感からやった親切なら、相手にとっては重荷でしかありません。
一方で、人に何か頼まれた時に、断ることが不親切のように感じて、心苦しく感じるクリスチャンも少なくありません。
困っているからと頼まれて、大事な物やお金を貸してしまって、後々、トラブルになったなんて話も結構聞きます。
私自身にも、あれやこれやと抱え込んでしまって、結局燃え尽きて、自分自身が倒れてしまったという苦い経験があります。
とにもかくにも、弱い人の立場に立って、困った人を助けるのがクリスチャンだ、なんて、思い込んでいたわけすが、聖書は、本当にそんなことを言っているんでしょうか?
3.まず聖書の文脈を確認しよう!
「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、食べる物を与え、渇いていたとき、飲ませ、旅人であったとき、宿を貸し、裸のとき、着る物を与え、病気をしたとき、見舞い、牢にいたとき、たずねてくれた。マタイ25:35~36 」
この聖句は、再臨の時の裁きについて主イエスが語られている箇所です。
「わたし」とは、第一義的には、主イエスであり、二義的には、神の民であるイスラエルを指します。
世の終わりの大患難時代には、イスラエルにどう接したかが、この時代の異邦人の永遠の運命を決めるのです。
サマリア人のたとえも、同様の意味で理解することができます。イスラエルの真の信仰者を救った隣人が、異邦人のサマリア人だということです。
「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。マタイ25:40」
ここも、文脈上は、「(イスラエルの)小さい者」です。
つまり、“神に従うがゆえに世で小さく貧しい者とされている真のイスラエルを助けるなら”、主イエスを助けたのも同様だというのです。
これらの箇所が、文脈上、まず強調しているのは、神の民であるイスラエルとイスラエルのメシアであるイエス・キリストの重要さです。
なぜなら、神の人類救済と世界回復の計画の中心に、イスラエルがあるからです。
これらの文脈をすっとばしてしまって、イスラエルを抜きに、この部分を主観的に呼んでしまうなら、何がなんでも、困っている人、弱い人に、親切にしなければならない、助けてあげなければならない、ということになってしまうでしょう。そうなれば、新たな口伝律法のできあがりです。
実を見れば、木がわかります。
イスラエルの信仰者に親切にするということは、その人が福音を信じたことの、確かなしるしなのです。
救いは、信仰と恵みによります。信じて救われているから、結果としてイスラエルに、信仰者に親切にするということです。
順番はこうなります。①福音を信じて救われた ➡②イスラエルの信仰者に親切にした ➡③真の信仰者だと確認された。
イスラエルに親切にするから救われるのではありませんし、親切という行為が救いを保証するのでもありません。他者への親切も同じことです。
以前の自分自身を振り返っても思いますが、親切にすることが、クリスチャンの証のようになっていなかったかな、と。それは、本末転倒です。
4.福音宣教こそ最大の善行!!
クリスチャンの、ノンクリスチャンに対する最大の善行とは、福音を伝えること。
すなわち、主イエスは、あなたの罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、復活されたと伝えることです。
どんな親切も、決して福音以上のものにはなりません。
意識しておくべきことは、受け取るか拒むか、決めるのはその人自身だということです。
福音を信じた人は、その瞬間に生まれ変わり、主のものとされています。後は、その人の内に住まわれた聖霊ご自身が導いてくださいます。
信じた人への最大の助け。それは、主の導きを着実に受け取っていけるように、共に聖書の学びを深め、励ましあっていくことにほかなりません。
5.自立と共生を原則として!!!
クリスチャン同士で助けあうことは、もちろん大切です。時に、具体的な行動も求められるでしょう。
でもそれは、お互いの自立を前提としたものでなければなりません。誰も、その人の人生を代わりに生きることはできません。
何より、信仰者としての人生そのものが恵みなのです。
その人自身が、神との個人的関係を築き、神の導きを受け取っていく。人生の喜びは、神との関係の深まりからあふれ出てくるのです。
試練もまた恵みです。体験的に主と出会い、主を知る尊い機会だからです。
悩みを聞き、共に祈ることは大切ですが、決断し行動するのは、その人自身です。
その領分を越えて、信仰の成長の機会を奪ってしまってはいけません。
依存と支配は、コインの両面です。信徒に過度に依存させる教会指導者は、間違いなく支配的です。
支配的な指導者は、神との直接的な関係に基づく恵みを、依存させることによって信徒から奪い取ってしまうのです。
「自立と共生」は、私たち聖書フォーラムの基本理念ですが、その土台にあるのは、主への信頼です。
神の計画を理解し、神の約束を信じる者の日常の必要は、主ご自身が満たしてくださいます。(マタイ6:33)
その助けが、その人の救いや信仰の成長を妨げることのないように、援助する者には、さらなる聖書理解の深まりと、信仰の確信が求められます。