十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

Q:ヘブル的じゃないとダメってどういうこと?

2022/09/10
 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

Q:ある人に、どうしたら救われますか、とたずねたら、ヘブル的視点から聖書を学ぶことだと言われて戸惑ってます。福音の三要素だけですよね?

 

キリストの十字架の贖いと葬りと復活。三つの要素からなる福音を信じること。

救いに必要なのは、それだけです。

「ヘブル的視点」という、特別な読み方があって、それで学ばなければ救われない、と言うのなら、それは明らかにいきすぎです。

 

一方で、別な見方から言えるのは、“福音を信じて救われる“ いう基本的な教理も、「ヘブル的視点」に沿ったものだということです。

そもそも、「ヘブル的視点」とは、何なのか。その確認が大切だと感じます。

 

1.そもそも、「ヘブル的」って?

旧約聖書は、ごく一部がアラムであるのを除いては、ヘブル語(ヘブライ語)で記されています。

アブラハムと、その子孫たちは、時にヘブル人と呼ばれました。

ヘブル人というのは、さすらいの民を指す、蔑称でもあったようです。

さすらいのヘブル人が、神に選び出され、神の民とされていく。そうしてイスラエル民族が誕生していくわけです。

イスラエル12部族の最大部族だったユダ部族から、後に、イスラエル民族全体を指して、ユダヤ人とも言うようになっていきました。

 

現代では、ヘブル人、イスラエル人、ユダヤ人、どれも同じ意味ですし、“ヘブル的“を、イスラエル的、ユダヤ的と言っても差しつかえないでしょう。

それでも、“ヘブル的”が、一番ふさわしいと感じます。

イスラエルという言葉は、三代目のヤコブからですし、ユダヤという言葉が出てくるのは、さらに後の時代です。

イスラエルの始祖であるアブラハムの時代から用いられていた、ヘブルという言葉なら、イスラエル、ユダヤ、そのすべてを包括します。

 

2.日本の文章は、日本的に読む

たとえば、「1月1日の朝、妹と二人、冷凍のたこ焼きをチンして食べた」と聞いたら、多くの日本人は、「あれ?」と違和感を感じるのではないでしょうか。

元旦の朝と言えば、家族、親族が集って、新年の挨拶を交わし、お屠蘇を飲んだり、お雑煮を食べたり、という習慣があることを知っているからです。

両親は? 他の家族は? どんな事情があるんだろうか? 自然と、いろいろ思い巡らすことと思います。

 

これが、日本の文化を全く知らない人だったらどうでしょう?

便利な食べ物があるんだな、くらいしか思わないかもしれません。

日本で書かれた文章を理解するには、日本の時代的背景や文化を知る必要があります。

日本の文章は、日本的に読む、当たり前のことですよね?

 

3.こどもにジョークは分からない?!

外国に行って、現地の人と自然にコミュニケーションできるようになるためには、言葉の習得だけでは難しいと聞きます。

子どもの頃何が流行っていたかとか、そういう文化的な背景も分かっていないと、何気ない冗談一つにもついていけないのです。

 

エルサレムで、イスラエル聖書大学の教師陣の講演を聞く機会がありました。

印象に残っているのは、「子どもにジョークは分からない」という言葉です。

言葉が理解できるだけでは、ジョークは分からない。背景を知る必要がある。そういう意味で言われたのでした。

 

ジョークの特徴は、隠喩(いんゆ)です。さりげなく、何かにたとえて話されているのが隠喩と言えます。

隠喩で語られるジョークでは、多くの場合、本当の意味は隠されていて、直接には語られません。

なので、理解するためには、共通する社会経験を持っていなければならないのです。

直接は口にできないようなことを、仲間内だけに理解できるたとえで話す。それがジョークです。

分かる人は分かって、大笑いする。

意味が分からない人は、ぽかーんとしているだけで、それがまた分かっている人には面白かったりするのです。

 

ユダヤ人のジョークを理解するためには、ユダヤ人の歩んできた歴史的背景、ユダヤ人の文化、仮定された状況そのものの文脈の理解が必要です。

面白い、と言われるユダヤ人のジョークですが、日本人がそのまま聞いても、まったく笑えなかったりします。

ひねりが効き過ぎていて、よほどユダヤ的な背景が分かっていないと、クスリとも笑えない、そんなジョークも多いのです。

その背後に、放浪の歴史の中、様々な差別や偏見にさらされてきた、民族的な苦難の歴史があることを思います。

 

4.聖書のジョークを理解したい!!

新約聖書の冒頭、マタイ福音書は、アブラハムからの系図で始まっています。

聖書を読もうと勢い込んで開いたものの、無味乾燥なカタカナの羅列に、早々と挫折する人も少なくありません。

でも、旧約聖書をよく知る人なら、様々な場面が思い浮かぶでしょうし、意外な焦点の置き方に驚愕させられる。そんな内容になっています。

 

イエスの生涯は、モーセから続く律法の時代のただ中にあり、人々の発言や暮らしの背後には、幾多の苦難を経てきたイスラエルの歴史があります。

たとえば、出生したイエスが、命の危機に遭い、一時エジプトに逃れ、再び帰還する。

その課程は、飢饉を逃れてエジプトに逃れたイスラエルが、400年の奴隷の苦難の後にエジプトを脱出した、歴史的出来事とイメージが重なります。

また、イエスとパリサイ人との対立を理解するには、旧約と新約の間の数百年の空白期である「中間時代」に、イスラエルで何が起こったかを知らなければなりません。

 

旧約聖書をよく理解していなければ、新約聖書は分かりません。

全体の文脈と、加えて、当時の時代的背景、文化を知らなければ、聖書の内容を理解するのは難しいのです。

ヘブル的視点がなければ聖書が分からない、というのは、そういうことです。

 

しかし、この当たり前の読み方が失われてきた、長い歴史があるのです。

3~4世紀に、教会が異邦人信者中心となり、ユダヤ人信者が追い出されていった結果、本来の聖書の意味は、分からなくなってしまいました。

それを補う形で主流になっていったのが、比喩的解釈です。

聖書を読んでいて、理解しがたい箇所にぶつかったら、自分で分かる範囲のことがらに置き換えて、説明し、納得する。

そんなことを始めれば、いくらでも好き勝手に聖書を読めてしまいます。

100人いれば、100通りの聖書の読み方が出てきてしまいますが、そんな混沌が、千年以上も続いてきたわけです。

 

私が神学校で、ただ一つ悟ったのは、みんな言っていることが違う、ということでした。

いろいろな注解書を開くほど、訳が分からなくなってくる。

何が正しいかなんて、結局分からないんだから、自分は、自分の信じることを語っていくしかない。

そんな思いだけを胸に、卒業したのをよく覚えています。

 

私の場合、現代的な価値観に染まった、自由主義神学(リベラル)の立場だったので、特に極端だったと思います。

しかし、程度の差はあれ、福音派の教会でも、同様の問題があるのを痛感させられています。

ヘブル的視点が大きく欠落したままなので、聖書が分からず、牧師の主観だけで語っている、そういうメッセージが少なくないのです。

牧師がそうだったら、説教を聞かされる信徒は、ますます混沌としていきますよね?

 

5.福音だって、ヘブル的理解の賜物

宗教改革で回復された重要な教理が、「信仰義認」です。

すなわち、聖書の救いの原則は、ただ、主を信じる信仰により、神の一方的な恵みによって救われるということです。

新約聖書で、パウロによって明確に記されているこの信仰義認は、すでに、イスラエルの始祖であるアブラハムの時から示されていたものです。

 

そして、今の時代に信じるべきことが、三つの要素からなる一つの福音です。

“主イエス・キリストは、私の罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、三日目に復活された”

 

この福音も、信仰義認も、まさに、ヘブル的視点の最も中心にあるものです。

聖書を、著者の意図に沿って、書かれた時代の人々が読んだように読む。

このヘブル的視点から聖書を読むときに、浮き上がってくるのが、福音であり、信仰義認であるということです。

宗教改革者のルターも、部分的とは言え、聖書本来のヘブル的視点に立つことができたからこそ、信仰義認という救いの原則を再発見できたのです。

全くヘブル的視点が欠落していたら、信仰義認という救いの原則も分からない。それは確かです。

 

ただし、ヘブル的視点で聖書を読まなければ救われない、となると言い過ぎです。新たな律法主義の匂いすらします。

思い浮かぶのは、律法を守り、ユダヤ人のようにならなければ救われない、と主張していた、律法主義者たちの姿です。

使徒パウロは、「ガラテヤ人への手紙」で、そういった律法主義者たちに正面から反論して、信仰義認の救いの原則を記しています。

 

6.字義通りに聖書を読もう!!

ヘブル的に聖書を読む。当時の時代背景、土地の文化、文脈を押さえて聖書を読む。

この大前提にあるのが、“字義通りに聖書を読む“ ということです。

これは、文字通り、とは違います。

たとえば、「目ん玉飛び出るほどに驚いた」と聞いて、ほんとに目玉が飛び出た、と理解したら大変です。

そうならないのは、これは、すごく驚いたことを示す比喩的表現なんだと言うことを、自然に分かっていて、コミュニケーションをしているからです。

 

“字義通りに読む“ とは、比喩は比喩、事実は事実と、著者の意図に従い、文脈に従って読むこと。

ようするに、当たり前に、自然に読む、ということです。

私たちが、普段の生活の中で、ごく自然に行っていることに過ぎません。

 

“ヘブル的に読む“ というのも、同じことです。

聖書が書かれた時代に、人々が読んでいたように読む。ただそれだけのことなのです。

 

以前、年配の女性と聖書研究をしていた時のことを思い出します。

いつも、自分の感想を言う前に、これはどう解釈したらいいのですか、と聞かれていました。

どこを読んでも、「分からない、どう解釈すればいいのか。」と言われるので、基本的に、そのまま読めばいいんですよ。と伝えるですが、それが、なかなか腑に落ちなかったようです。

何十年も教会生活を送ってきた方でしたが、ほとんど聖書をまともに読んだことがなかったようで、創世記のヨセフすら知らなくて、驚かされたことがあります。

旧約からのメッセージなど、ほとんど語られない、そんな教会ばかりにいたら、仕方がないな、とも思わされました。

どれだけ聖書全体から、メッセージを語ってきただろうかと、自分自身を振り返らされるきっかけにもなりました。

 

その人は、あらゆることを比喩的に解釈する、そんな説教ばかり聞かされてきた結果、聖書をどう読んでいいか、まるで分からないままだったのだと思います。

自分の理解できないことは、比喩的に解釈する。それが行き過ぎると、奇跡も奇跡としてとらえることができなくなってしまいます。

信仰の根幹すら揺らいでいってしまうでしょう。

 

聖書が求めているのは、字義通りに、素直に、当たり前に読む、ということです。

それが基本です。

ただし、私たちと聖書の間には、時代的隔たりがあり、文化的、言語的違いがありますから、ヘブル的視点を意識して、そこを補う必要があります。

 

 

7.ヘブル的に、当たり前に、聖書を読もう 求められる謙遜さ

ヘブル的理解というのは、新しい教えではありません。

むしろ逆です。最もオーソドックスな、当たり前の読み方をしようということに過ぎません。

 

ヘブル的学びを重ねてきて、何よりいいな、と思うことは、基本的教理から、一歩も踏み出すことがないということです。

信仰義認、救いの原則、福音の真理。むしろ、ヘブル的視点から学べば学ぶほど、これらの基本的な教理に対する確信が強まっていきます。

学べば学ぶほど、知識が増えれば増えるほど、信仰は、子どものように、シンプルになっていく。

無駄がそぎ落とされて、すっきりさせられていく。そんな爽快感があります。

 

もし、「ヘブル的視点」を錦の御旗のように掲げて、あたかもそれが、特別な読み方であり、学んだ自分は特権を持っているように振る舞う人がいれば、それは大いに問題です。

人は、支配的な欲望に陥りやすいものです。

何か新しい知識や力を手に入れると、それを振りかざすことによって、他者に影響力を及ぼし、支配しようとする人が必ず出てきます。

ヘブル的視点という聖書知識に関しても、自分の虚栄心を満足させるために用いる、残念な人がいるようです。

使徒の時代から、すでにそうでした。

よい麦と毒麦、真実と偽りが混ざりあう。それが、主イエスのこの時代への警告です。

 

真理に出会えた、そのこと自体が、主の一方的な恵みです。

「誇る者は、主を誇れ」

聖書の学びの過程にも、モーセのように謙遜に、主に仕える姿勢が、私たち一人一人に求められています。

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