Q:人はどうして偽りの教えにはまるのか?
1. 信じているとは言わないけれど…
先日、“宇宙人の存在がまもなく明らかにされる”と、真顔で話すクリスチャンと出会って驚愕させられることがありました。
「聖書に書いていないことは分からない。宇宙人がいないとは言えない」と熱弁するその人の中では、明らかに再臨のメシアは、宇宙のテクノロジーで理想世界をもたらすと言う良い宇宙人に取って代えられてしまっていました。
同じような言いようを、いわゆるNAR(新使徒運動)にはまった、とある牧師がしていたのを思い起こしました。
「今の時代に使徒や預言者がいないとどうして言い切れるのか」という彼は、自称使徒に会いに海外まで行き、告げられた「預言」にしがみついていました。
両者に共通しているのは、宇宙人や現代の使徒や預言者を信じているとは言わないけれど、言動を見れば明らかに優先順位はそこにあることです。
聖書の御言葉よりも、宇宙人や現代の使徒、預言者に信頼を置いている。
実態としては、それらのことを信じているわけですが、信じているとは言わない、認めないのが厄介です。
聖書で、主イエスと使徒たちによって最も多く告げられているのは、偽りの教えについての警告です。その意味を身をもって思い知らされました。
(*新使徒運動(NAR)…現代にも使徒や預言者がおり、その権威に従うべきであるとするムーブメント。自称使徒や自称預言者の言葉や預言が時に聖書以上の権威を持つのが大問題。詳しくはこちらへ。)
2. どうして信じてしまうのか?
いろいろと思い巡らしていて、頭を離れない疑問は、そもそも、この人々は、なぜこんなことを信じ込んでしまうのか、ということです。
自称使徒の預言のほとんどは、そもそも内容も曖昧な上に、外れの方が多いくらいです。
預言者が預言とて語ったことは100%成就しなければならない。それが聖書の基準です。
現代の自称使徒の預言など問題外です。
理性的に考えれば、なぜそれを信じ込んでしまうのが、不思議でしょうがありません。
宇宙人の話にいたっては、その手の雑誌に面白おかしく書かれている陰謀論の極めつけに、なぜクリスチャンがはまってしまうのか理解不能です。
宇宙人にはまってしまったのは、聖書をヘブル的に字義通り学んできたはずの人たちでもありました。
偽りの教えにはまってしまった人々には、以前から危うい側面がうかがえたことを思い起こします。
ある人が、自分の家族に霊を見ることができる者がいる、と得意げに話されていたことがありました。
しかし、聖書によれば、死んだ者の霊は、神ご自身によって、この世界とは明確に隔てられており、決して越えられません。(ルカ16:20~)
死者の霊として、悪魔、悪霊がなりすましているのであり、だからこそ、律法は、死者の霊との交わりを厳しく禁じているのです。(レビ19:31他)
またある人は、日本にキリスト教が広がらなかったのは、癒やしなど、霊的な働きをする者がいなかったからだ、と主張されていました。
突飛な説や、癒やしや預言を強調する人々に共通して感じるのは、もともとセンセーショナルなことがらに惹かれやすい傾向があったのでは、ということです。
3. 劇場型クリスチャンの陥る罠
字義どおり、つまり著者の意図どおりに聖書を学ぶことに、とことんこだわっているのが、へブル的聖書解釈です。
それなのになぜ、そのメンバーからすらも、偽りの教えにはまる人が出てきてしまうのでしょうか。
ヘブル的聖書解釈も、出会った当初は大きな衝撃をもたらします。
それは、いかに教会の多勢が、真理から離れてしまっていたかということにすぎません。
イエスの教えに、人々が驚いたのは、イスラエルがいかに、神の教えの本質から離れていたかという現実の裏返しでした。
へブル的聖書解釈による字義通りの学びを深めるほどによく分かるのは、実は目新しいことなど一つもなく、極めて当たり前のことを当たり前に学ぶということに過ぎないのだということです。
しかし、へブル的聖書解釈に惹かれる人々の中には、内容そのものより、衝撃的だった体験自体に強く魅了される人も少なからずいるのではないでしょうか。
センセーショナルである、という誘惑があります。
耳新しく突飛な言説ほど人目を惹きます。
他の人は知らないことを知っているという優越感も覚えることができます。
聖書の突飛な新説や解釈も、癒やしや預言も、それを振りかざすときには大きな支配的な影響力が生まれます。
“その辺りの牧師も信徒も知らないことを私は知っている。彼らにはできないことが自分にはできる”
霊的優越感とも言うべきものが、そこには働いています。
宇宙人信仰にはまった人は、「半年、一年もすれば分かる」と、繰り返し強調されていました。
宇宙人の存在が明らかにされたときには、牧師やリーダーたちも過ちを認めてひれ伏すとでも言うのでしょうか。
強烈な自負心が、言外に匂わせられているように感じました。
4. 当たり前を当たり前に
私自身、ヘブル的解釈に初めて触れたときには大変な衝撃を覚えました。
自由主義から福音派へと立ち位置も逆転し、環境も激変するに至りました。
夢中で学びを深める中で気づいた事実があります。
ヘブル的解釈に基づく学びは、従来唱えられてきた信仰の基本から一歩も足を踏み出さないということです。
私の属していた教団には、使徒信条を基礎とした極めてシンプルで、オーソドックスな信仰告白がありました。
数年、へブル的解釈に基づく学びを進めた後、総会でその告白文を読み上げたとき、かつてない深い感動に満たされたことをよく覚えています。(心ふるえた、信仰告白)
数年前から、創世記を皮切りに、順に講解説教を重ねてきました。
聖書が繰り返し胸に刻みつけるのは、変わらない信仰の大原則に他なりません。
“救いはただ信仰により恵みによる。”
“神の約束は絶対で、一度与えられた救いは取り去られることはない。”
“神の栄光こそ、聖書の中心テーマであり、世界の回復、人類の救いをもたらすのは、世界の最初に約束されたメシアである。”
私たち人間に求められるのは、世界を造った神の言葉を信頼すること、それだけです。
神の言葉である聖書は、聖書を絶対とし、聖書にのみ信頼することを繰り返し告げているのです。
モーセ以降のイスラエルに求められたのは、律法に従うことだけでした。
主イエスの十字架と復活以降、聖霊が降った、それが現在の教会時代です。
今、私たちに求められているのは、聖霊が保証する、新約聖書に記された主イエスの言葉と使徒の教えに信頼すること、ただそれだけです。
「もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。」 黙示録22:18~19