「罪」をめぐる理解の違いと混乱 一般社会と クリスチャンの リベラルと 福音派と
1.一般社会における罪
一般的に「罪」というと、倫理的、道徳的な罪、あるいは法を犯す犯罪のことですよね。
それは罪だ、という時に、倫理的に、法的に悪いことをしている、ということになるわけです。
「罪人」というと、犯罪者のことですね。
そういう価値観の中にいる人が、いきなり、「あなたは罪人」と言われたら…。わたしは犯罪者じゃない。それなりにまっとうに生きてきたんだ、と反発を感じるのは無理もないですよね。
2.リベラルのクリスチャンにおける罪
ここでのリベラルのクリスチャンとは、聖書を丸ごと神の言葉と信じていない人、聖書のすべてが神の言葉というわけではない、という立場のことです。自由主義神学とも呼ばれます。わたしも以前はこの立場でした。
リベラルのクリスチャンや教会の中では、「罪」という言葉自体があまり取り上げられない傾向があります。説教でも、「罪」や神の裁きについて話されるのは好まれません。
聖書を、神の言葉と、そうでないものとに分けて考えるリベラルにおいては、その人にとって都合の悪い言葉は、これは人の言葉だと言って無視される傾向が強いです。
そんなリベラルの中で、「罪」という言葉が倦厭されがちなのは、納得のいくことです。
リベラルの牧師に、罪とは何かとたずねたら、「人を傷つける以外に罪はありません」とか、かなり限定的に答える人が多いでしょう。
中には、「すべての人は救われているんです」とか、「罪人なんていないんです。神様はすべての人を愛されているんです」と答える人もいるでしょう。(わたしもそうでした。)
そのような、リベラルの教会の中で、「あなたは罪人だ」と言われたら…。これは大変なことです。
死刑宣告を受けるようなものですし、教会という共同体における社会的な抹殺です。
ですから、リベラルという教会の文化の中で、「あなたは罪人だ」というのは、紛れもなく、その人の人格を否定する行為になると思います。
3.福音派のクリスチャンにおける罪
ここでの「福音派」とは、聖書をすべて神の言葉として信じているクリスチャンのことです。
日本基督教団の中では、社会派の人々が反対の立場の人々を福音派と呼びますが、そこでの福音派とはずいぶん異なります。大きな枠組みでは、その人々の多くもリベラルに入るでしょう。
聖書すべてをそのまま神の言葉として信じている、というクリスチャンは、おそらく、日本基督教団の中では1割にも満たないのではないでしょうか? 社会派の人々が呼ぶところの福音派の人々からも嘲りの対象になってしまうような、ごく少数の存在だと思います。
福音派のクリスチャンが、聖書そのままに理解しているのは、すべての人は罪人だ。ということです。
ここでの罪とは、創造主と離れてしまっているという状態そのものを指します。アダムとエバが、神との約束を破ったその時から、人は堕落し、神と離れた罪の状態に陥っていると考えます。
この世に様々な悪や罪の行為が満ちているのは、人が神と離れてしまったからだ、ということです。
神は、罪を犯した人に対して怒りを燃やされます。神は、ねたむ神だとも聖書にはあります。
もし、夫や妻が不貞をしたのに、なんとも感じないなら、本当に愛しているのか、と問われますよね。神は、人を愛するゆえに、人が創造主以外の偶像の神を愛することをねたまれるのです。
神は正しい方なので、悪を見過ごすことができません。神はきよい方なので、神の住まわれる天には、どんな小さな悪も存在することができません。
罪人である人は、そのままでは、誰一人として、神のもとにいくことはできないのです。
神の求める基準には、人は誰も達することができない。それが、すべての人が罪人だということです。
聖書の言う救いとは、神の怒りからの救いです。
福音派の教会の中で、「あなたは罪人だ」と言うのは、この前提があってのことです。救われるためには、自分が罪人だ、という自覚が必要なので、「あなたは罪人だ」と伝え、そのことを受け入れてもらう必要があるのです。
福音派の人々が、伝道する中で、一番難しさを覚えるのが、ここです。「あなたは罪人だ」と言われて喜ぶ人はいませんよね。
罪について語るときには、聖書の背景からきちんと説明することが求められます。それでもやはり、怒り出す人や、傷ついたと言う人が現れます。
4.聖書が示す救いとは?
人は、罪を犯し、神から離れてしまっている。人は、死を免れることはできないし、人類は滅びに向かってひた走っている。
かと言って、罪ある人は、きよい神の前にでることもできない。
絶望的な状況で、神が人に示された救いの方法。それがイエス・キリストでした。
言ってみれば、人間はすべて死刑囚です。死刑囚が死刑囚の身代わりにはなれません。
全く罪のない人、神と完全な関係を持っている人がいるとしたら、その人は、罪人の身代わりになることができますが、そんな人間は地上には存在しないのです。
神は、全く罪のない方ですが、しかし、永遠の存在である神は、人間の身代わりとして死ぬことはできません。
この矛盾を解決する方が、人となられた神の子、イエス・キリストです。キリストは神なので、人をゆるすことができます。キリストは人なので、身代わりに死ぬことができます。
私たち人間の置かれている状況とは、高層ビルの火災で屋上に取り残されたようなものです。はしご車も届かないし、飛び降りることもできない。そのままでは、死をまつだけ。
でも、ふと上を見上げると、レスキューヘリから縄梯子が降ろされている。助かる方法は、一つ。梯子をつかむ。それだけです。
キリストは、天地をつなぐ命の梯子です。この世界も、人も、滅びに瀕していますが、ただ、天を見上げ、神の救いを受け入れて信じれば、救われるのです。
信じるべきことは、三つの要素からなる福音です。
➀罪人だったわたしのために、神の子イエス・キリストは十字架にかけられ、
②死んで葬られ、
③三日目に復活された。
このことを信じ、イエス・キリストをまさに、このような方として人生に受け入れる。
復活されたイエスは、天に昇られ、父なる神の右で、私たちの祈りを聞いてくださっています。そしていつか再び、地上に戻ってこられ、世界を、神様が最初に造られた、理想の世界へと回復してくださるのです。
それが、福音派のクリスチャンが、聖書から教えられ、信じていることです。
補足:どこかの教会に属していることが、その人の信仰の保証ではありません。
福音派のグループや教会に属しているクリスチャンは、みんな正しく福音を理解して、信じているかというと、残念ながらそうではありません。
これは、人間の罪という性質にも深く関わることですが、ともすれば、簡単に道を外れてしまうのが、私たち人間です。どの組織も、また誰もが、何らかの間違いを抱えていますし、誤りも犯します。
特定の罪の問題を抱えた人に対して、憎悪や敵意を向ける福音派のクリスチャンがいれば、その人は、本当に福音を理解しているのか、そもそも、本当に信じて救われていると言えるのか?ということが問われます。
「わたしもまた、滅ぶべき罪人だったけれども、神の憐れみによって、ただ信じることによって救われた。」そのように、本当に自分の罪を理解していたら、他者の罪を執拗に責めるなんてことはできないはずです。
クリスチャンの信仰の成長とは、自分の罪を深く自覚させられていく過程でもあります。こんな罪深い自分をも神様は憐れんで救ってくださった…。だから、謙遜にさせられていくのです。
伝道の動機もそこから生まれます。神様は、こんなわたしをも救ってくださったのだから、この人も必ず救ってくださいますよね。と。
【関連記事】
Q:あなたは原理主義者ですか?
Q:どの教会なら安心して行けますか?最初の人アダム 楽園と堕落と救いの約束 最後のアダムへ