信仰と人生 ~信じるということの不思議さ~
1. 告白は、いつも突然に。
「イエス・キリストが、わたしの罪のために十字架にかかり、死んで葬られ、復活されて、今も生きておられることを信じます。」
何度立ち会っても、感動的な信仰告白。その瞬間は、いつも、意外な形でやってきます。
「え? 信じたんですか? 本当に?」
思わず聞き返してしまうこともあります。
改めて、福音の三要素を説明して、言葉の意味を確かめながら促すと、きっぱりと告白されて。あぁ、確かにこの人は信じたんだ、と、己の不信仰を恥じさせられるのです。
この人は、心堅いなぁ、まだまだ時間がかかるだろうなぁ、と思っていた矢先に、そのご本人が涙ながらに告白される。ということが起きるのです。
本当に不思議だと思います。
2. 自発的な告白を促すもの。
聖書の求める信仰は、徹底して自発的な行為です。
人間の自由意志は、神様ご自身が与えられたものであり、誰も侵すことのできない領域です。
なぜなら、自由な意思がないところに愛は生まれないからです。
力で人を従わせることはできても、愛させることはできません。
神から離れる自由がなければ、神を愛することもできません。
神は、人間を愛し合う存在として造られ、自由意志を与えられたのです。
3. 福音宣教のジレンマ
なんとか信じて、救われて欲しい。この喜びを味わって欲しいと、クリスチャンは切に願って宣教するわけですが、誰しもがぶつかる壁は、誰も相手に信じさせることはできない、ということです。
いくら雄弁で、説得力に富んでいても、どんなに愛があふれていても、人は自分の力によって信じさせることはできません。
自分は、人の救いに対して本当に無力であることを思い知らされます。でも、それが、大切なことなのです。
なぜなら、信じることは、神様ご自身が導かれることだからです。
4. 主権は神にある
自分はなぜ信じることができたのだろうと振り返ります。
特段理解力があったわけでも、信仰深かったわけでもありません。神様が導いてくださったとしか言えないことを思い知らされます。
その時、「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選んだ(エペ1:4)」という御言葉が心に響きます。
信仰は、一方的な神からの恵みなのです。
伝道の際に求められるのは、謙遜さです。
わたしのような者すら、神は救いに導かれたのだ、ならば、この人を救ってくださらない筈がないと、神様に信頼し、期待することができます。
「こんなに素敵な人を、こんなにも苦しんでいる人を、神は救ってくださらないはずがない!!」
神は、完全に公正で、限りなく愛にあふれた方です。
私たちのなすべきは、ただ、神を信頼して、福音を宣言していくこと。
伝えるべきことは、とてもシンプルな1つの福音だけです。
「あなたの罪のために、イエス・キリストは十字架にかけられ、死んで葬られ、復活されたのです」と。