信仰と人生 ~信じるということの不思議さ~ 

      2017/11/15

1. 告白は、いつも突然に。

「イエス・キリストが、わたしの罪のために十字架にかかり、死んで葬られ、復活されて、今も生きておられることを信じます。」

何度立ち会っても、感動的な信仰告白。その瞬間は、いつも、意外な形でやってきます。

「え? 信じたんですか? 本当に?」

思わず聞き返してしまうこともあります。

改めて、福音の三要素を説明して、言葉の意味を確かめながら促すと、きっぱりと告白されて。あぁ、確かにこの人は信じたんだ、と、己の不信仰を恥じさせられるのです。

この人は、心堅いなぁ、まだまだ時間がかかるだろうなぁ、と思っていた矢先に、そのご本人が涙ながらに告白される。ということが起きるのです。

本当に不思議だと思います。

2. 自発的な告白を促すもの。

聖書の求める信仰は、徹底して自発的な行為です。

人間の自由意志は、神様ご自身が与えられたものであり、誰も侵すことのできない領域です。

なぜなら、自由な意思がないところに愛は生まれないからです。

力で人を従わせることはできても、愛させることはできません。

神から離れる自由がなければ、神を愛することもできません。

神は、人間を愛し合う存在として造られ、自由意志を与えられたのです。

3. 福音宣教のジレンマ

なんとか信じて、救われて欲しい。この喜びを味わって欲しいと、クリスチャンは切に願って宣教するわけですが、誰しもがぶつかる壁は、誰も相手に信じさせることはできない、ということです。

いくら雄弁で、説得力に富んでいても、どんなに愛があふれていても、人は自分の力によって信じさせることはできません。

自分は、人の救いに対して本当に無力であることを思い知らされます。でも、それが、大切なことなのです。

なぜなら、信じることは、神様ご自身が導かれることだからです。

4. 主権は神にある

自分はなぜ信じることができたのだろうと振り返ります。

特段理解力があったわけでも、信仰深かったわけでもありません。神様が導いてくださったとしか言えないことを思い知らされます。

その時、「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選んだ(エペ1:4)」という御言葉が心に響きます。

信仰は、一方的な神からの恵みなのです。

伝道の際に求められるのは、謙遜さです。

わたしのような者すら、神は救いに導かれたのだ、ならば、この人を救ってくださらない筈がないと、神様に信頼し、期待することができます。

「こんなに素敵な人を、こんなにも苦しんでいる人を、神は救ってくださらないはずがない!!」

神は、完全に公正で、限りなく愛にあふれた方です。

私たちのなすべきは、ただ、神を信頼して、福音を宣言していくこと。

伝えるべきことは、とてもシンプルな1つの福音だけです。

「あなたの罪のために、イエス・キリストは十字架にかけられ、死んで葬られ、復活されたのです」と。

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