クリスチャンの終末観 三つの立場から 置換神学 リベラル ヘブル的視点

      2017/10/06

①置換神学に基づく終末観

「置換神学(ちかんしんがく)」とは、キリスト教がローマの国教になって以降、根付いていった立場です。

「イスラエル」は、キリストを拒んだユダヤ人から、クリスチャンの教会に取って代わったと考えます。

教会は、メシアニック・ジュー(ユダヤ人クリスチャン)を排斥し、ヘブル的要素を排除した結果、元来の聖書の文脈を失ってしまいました。そして理解しがたい預言は、比喩的に、私的に、解釈するようになったのです。

例えば、イスラエルに対する裁きの預言はユダヤ人のことで、イスラエルへの祝福の預言は、教会に対してだと言う具合に、ご都合主義的で、一貫性がないのが置換神学の特徴です。

イスラエルの回復としての千年王国は、教会においてすでに実現されており、文字通りの携挙も千年王国もない、という立場の人も多いようです。

②リベラルのクリスチャンの終末観

リベラル(自由主義神学)の人々の多くは、天地創造は神話だと考えています。

聖書の預言は、実現したものもあれば、そうでないものもある。そもそも聖書自体、神の書いたところと人の書いたところがある。ではどこが正しいのかとなると人それぞれで、混沌としています。

キリストの復活すら信じていない人もいますし、イエスは神だと言うことをはばかり、人間性がことさら強調されます。
イエスは、弱く貧しい人々のために立ち上がった慈善家か、革命家のようです。

イエスの再臨も神話的なことに過ぎませんから、リベラルの価値観では、平和は、自分たちの努力で実現し、勝ち取るものということになります。

そういう点から、リベラルの人々の中に、マルクス主義的、共産主義的な考えや価値観に共鳴する人が多いのは頷けます。

自分自身の救いも信仰も曖昧な中で、何かの社会運動や平和活動に関わり、社会的正義を訴えることこそ、信仰の表明と考えている人々も多いです。

一見すると正義感が強く、人間味溢れる人々も多いですが、所詮、人間の業に過ぎません。

自分自身のこだわりを非難されると激高する人も少なくありませんし、自分の信念を受け入れない人々に対しては、極めて非寛容で排他的ということも、ままあります。

③本来のヘブル的文脈に基づく終末観

ある日突如、携挙があり、まことの信者が天に挙げられる。その後、反キリストがイスラエルと平和条約を結び、7年間の大患難時代が始まる。その最後にユダヤ人が民族的回心をし、イエスが再臨される。そう信じる立場です。

再臨されたイエスは、地上から悪を一掃し、エデンの園の楽園が回復されます。この千年王国において、福音を信じたすべての人は、復活の体を与えられて、永遠の命を生きるのです。

千年王国の最後、悪の勢力が最終的な裁きを受けて滅ぼされ、天のエルサレムが地上に降り立ちます。これが新天新地。はじめに神が創造された天地が、完全に回復されるということです。

「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」黙21:4

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