追悼 登山家・栗城史多さんの死に思うこと…。信仰者としての共感と切なる祈りと
1.栗城史多さんの死をめぐって…
エベレスト登山で命を落とした冒険家の栗城史明(くりきのぶかず)さん。
一度も登頂経験のない山に、厳しい季節の最難関ルートを選び、無酸素単独という困難な条件で挑んだ挙げ句のことでした。
しかも彼は前回の挑戦で、凍傷によって9本の指を失っているのです。
無謀を通り越した行為に、「四回戦ボーイが、マイク・タイソンに挑戦するようなものだ」と言っている人がいました。
つまり、日本チャンピオンにも挑戦できないボクサーが、無敵の世界チャンピオンに挑戦するようなものだということです。
スポンサーの手前、引き下がれなかったのではとか、ショー化していたとか、いろいろなことが語られています。
彼に対する評価は、真っ二つに分かれます。
詐欺師と断罪する人。分からないと嘆く人。逆に、信頼できる、勇気をくれたと、強く支持する人と…。
2.自らの信条に生きた栗城さん
栗城さんについて、私がふと感じたのは、宗教的な信仰心に近いものです。
彼のホームページで、「否定という壁への挑戦」という文を読みました。
大学3年で北米最高峰のマッキンリーに挑戦したとき、周囲には否定の声ばかりだった、と彼の原点が記されていました。
できない、と否定されるからこそ、挑戦する。
彼が、エベレスト登頂に失敗する度に難易度を上げていき、99.99%不可能と言われる無謀な挑戦をした意味が分かったような気がしました。
失敗するごとに、否定の壁は大きくなり、だからこそ、挑戦するほかなかった。
「否定という壁への挑戦」という信条を掲げている以上、彼は、少なくとも、死ぬまで挑戦をやめるわけにはいかなかったのでしょう。
栗城さんは、「否定という壁への挑戦」という自分の信条を、全うして、死に至ったのだと思います。
3.クリスチャンとして、否定の壁に向き合うということ
ひるがえって、クリスチャンの信仰について考えさせられました。
熱心に信じて祈れば適うとばかりに、百人教会をたてあげるとか、大きな花火を打ち上げる人がいます。
でも、何年経っても変化はない、となれば、修正が求められます。それは本当に神の御心だったのかと問われます。
自分の思い込みに過ぎなかったと気づかせられれば、悔い改めて、謙遜に歩み出すことが求められます。
わたしが、地方の町で、小さな教会の開拓を始めて3年目です。振り返ると、自分が掲げた目標は何一つ実現していないことに気づかされます。
一方で、自分の思いや予想を超えたことが起こっていることも。
主が成し遂げられるのだ。何一つ、わたしの力ではないのだと、思い知らされる日々です。
“十字架で私たちの罪をあがない、復活して天に上られた主イエスは、再び戻って来られ、世を裁き、世界を回復される。”
そんなことがおこるわけがない、と。
わたしが信じていることは、世の多くの人々には、一笑に付されることでしょう。
わたしもまた、直面させられている否定という壁があります。
身をもって教えられているのは、わたしには、その壁を乗り越える力はない、ということ。人々に、信じさせる力など、わたしには、ありません。
主が、人々の心を開き、信仰へ導き、救い出してくださる。
信仰告白の場面に立ち会う度に、信じることの不思議さを思わされます。
主は、否定という壁を、こなごなに打ち砕かれる方です。
“主イエスは、死を打ち破って復活された。すでに壁は崩された。”
何より崩されたのは、自分自身の中にある否定の壁でした。
わたしは、神を拒み、自分を信じ、自分の力で成し遂げようとしていた。
それが、ことごとく崩されたとき、残ったのは、ただ、神にすがるしかないという思い。神に対する信頼だけだったのです。
改めて、栗城史多さんを思います。
彼の最後の心境など誰にも分かりません。
しかし、死の間際の極限状況で、主ご自身が彼と出会ってくださり、永遠の平安に導かれていることを切に願います。
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