十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

決められないクリスチャン。父性の欠けた教会。母性的日本のキリスト教会の問題点を考える。

 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 

1.母性社会と言われる日本

日本は、母性社会であると言われます。

母性とは、無条件にこどもを庇護する母親の姿に象徴されます。

愛されたという感覚を幼少期に得ることは、とても重要なことです。

 

しかし、いつまでもこどもを親の保護下に置いておこうとすれば、自立を妨げてしまいます。

母性的愛が、延々とこどもに依存させ、支配する、歪んだ関係に陥ってしまうことがあります。

人間的愛は、利己の影響を免れることができません。

人間的母性には、無条件の愛と、無制限の支配の両面があるのです。

 

カルトでは、新来者に対しては、ラブシャワーと呼ばれる過剰な愛の表現で迎えます。

しかし、いざ信者となれば、教祖への全的依存を求め、自分で判断することを許さず、束縛と支配で押さえつけます。

母性が利己的に暴走した姿が、そこにはあります。

 

母性社会で強く求められるのは、個の自立ではなく、場への従属です。

正しさよりも、全体の雰囲気を壊さないこと、理論よりも、情緒が優先されます。

明確な命令ではないけれど、上からの意図を読み取って、過度なまでに応えようとする。

「忖度(そんたく)」という言葉は、極めて日本的な文化を背景にしていると言えるでしょう。

 

 

2.日本型母性的キリスト教会

日本のキリスト教会も、日本の母性的文化の影響を多分に受けていると思います。

その一つが、過度なほどの愛の強調にうかがえます。

「神は愛である」「あなたは愛されている」

これはもちろん、キリスト者が発信すべき大切なメッセージです。

問題は、愛ばかりが強調されがちなところにあります。

 

クリスチャンのある人と、とても大切な約束をしたのだけれど、それ以降なしのつぶてで何の連絡もない。

ようやく連絡がついて、どうなったのかと聞いたら、約束したことを何一つ実行していない。

相手に問いただすと、「平安がなく、祈っていた」と言われた。

…そんな経験がある人は少なくないのではないでしょうか。

 

一般社会であれば、無責任のそしりを免れないことも、「祈っていたので」の一言で済まされてしまう。

日本のキリスト教会において、母性社会が、さらに強固なものとなり、様々な弊害がそこから生じているように感じられてなりません。

愛が強調され、寛容と赦しが強制される一方で、責任と約束が反故にされてしまうなら、それは大いに問題です。

ビジネス界の方から、クリスチャンは使い物にならない、なんて声を耳にすると、本当に残念に感じます。

 

何より重大な問題は、母性的愛の強調によって、聖書に記された唯一の神の真実の姿が歪められてしまうことです。

 

3.強調される「愛の神」

日本型母性的キリスト教会で、常に強調されるのは「愛の神」です。

“神は、ありのままのあなたを愛している。” もちろん、それは間違いではありません。

滅びに至る罪にも関わらず、神は一方的に私たちを愛し、救いの手を差し伸べられました。

先ず、「神が私たちを愛した(Ⅰヨハ4:10)」とある通りです。

 

一方で、神は「義」なる方です。不正を憎み、どんなに些細な悪であっても決して相容れることがありません。

旧約の神は義の神で、新約の神は愛の神である。という、よくなされる説明は、聖書をねじ曲げています。

旧約聖書にも、憐れみの神、イスラエルを育む全能の神の姿がたくさん記されています。

新約聖書で、一番多い命令は、福音書でも書簡でも、偽りの教えに対する厳しい禁止です。

聖書の神は、一貫して愛と義の神です。

 

神の義と愛の最大のあらわれが、キリストの十字架です。

主イエスは、ゲツセマネの最後の祈りで、私たちの受けるべき神の怒りの杯を、身代わりに飲み干すことを覚悟されました。

それは、神との完全な断絶を意味していました。そして、主イエスは、十字架で私たちの罪のあがないを成し遂げてくださいました。

 

悪は決して見過ごしにできない。しかし、罪人を救いたい。

相反する難題を解決するためのたった一つの方法が、罪なき神の子キリストが、その身を犠牲にすることだったのです。

神の、罪に対する厳格さなくして、十字架の愛はあり得なかった。

神の愛と義は、切り離せない一つのものです。

愛だけを強調して、神の義と裁きについて語らないならば、結局は、十字架の愛を貶めてしまうことになります。

 

4.聖書の求める正しい父性

父性的権威と聞いて、日本人が思い浮かべるのは、夕飯が気に入らないからと、ちゃぶ台をひっくり返すような、身勝手な父親の姿かもしれません。

しかし、DV加害者の父親のような暴君はむしろ、母性的社会の産物です。

母親からの無条件の愛を、妻や家族に対しても求める夫の理不尽が背後にあります。

 

夫の理不尽をも包み込み、耐えることが妻の母性愛だとされれば、夫の暴力は肯定されてしまいます。

夫の幼稚さに対して、妻が自分の被害者性をこどもたちに強調し、同情を誘うという図式もありがちです。

暴力をふるう夫の背後で、妻は、こどもたちを巧みに味方につけ、依存させ、支配していたりするのです。

父親の暴力の下で、母親への依存を強めた、その子が、DVの加害者となっていく。まさに、負の連鎖です。

 

真実の父性的価値観において、父親の権威は、ルールを遵守し、責任を果たすところに認められるものであって、理不尽な暴力とは決して相容れません。

家長である父親は、権威において、公正に義を果たす責任を求められます。

神の裁きにおいては、大きな権威を委ねられたものほど、重く責任を問われます。厳格な原則があるのです。(マタイ18:6他)

 

正しい父性は、こどもの成長と自立を促すもの。神がイスラエルとシナイ契約を結んだ理由も、そこにあります。

法は、本来自由をもたらすものです。

もし、人間に、無制限に神の義が求められたら、誰が応えられるでしょうか?

神は、法を与えることで、人間側の責任の範囲を明確に定め、神の国に近づく道筋を示してくださったのです。

 

創世記1~3章に記されているように、「善悪を知る木の実」さえ食べなかったら、人間は、永遠に楽園の自由と繁栄を享受できました。

一つの約束も守り通せない人間に対し、神は、一方的に責任を果たされ、新たな約束を与えてくださいました。

つまり、イエス・キリストが私の罪のために十字架にかけられ、死んで葬られ、復活されたと信じること。

このことを信じた者は、神の目に義とされ、神の国での永遠が約束されるのです。

 

聖書の神は、義と愛の神です。

小さな罪も見過ごされることのない聖なる方であり、罪人の悔い改めのために途方もない猶予を与えられる憐れみの方です。

約束と責任を求める父性も、無条件の愛を注ぐ母性も、共に、神のご性質の現れです。

イエス・キリストのみ体なる教会は、義と愛、父性と母性という主の性質を、正しく反映したものでなければなりません。

日本のキリスト教会に強く求められているのは、かすれてしまった神の義と父性の回復です。

 

日本の教会が父性を回復するために、何よりもまず必要なことは、神の契約について正しく理解することです。

聖書の恵みとは、神の一方的な愛と、変わらない永遠の契約に基づく恵みです。

どうか、支配と抑圧の下にある方が、主の恵みの約束に基づいた、真実の自由と平安を得られますように。

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「夫婦となる旅路 一心同体となる霊性の成長」奥田信行 (いのちのことば社) 

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